大東亜戦争で310万人の霊魂が
日本を守ってくれました。
(長周新聞主催の座談会から)
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/1134
語れなかった東京大空襲の真実――首都圏制圧のための大虐殺
130回の空襲で死者・行方不明者25万人
一晩にして10万人が殺された世界的にも類を見ない大惨事であったにもかかわらず、70年目を迎える今も公の慰霊碑も記念館もないことを痛切に訴えてくる人が多かった。東京都民から語られた経験と切実な思いから出してみたい。
東京空襲について、一般に死者10万人といわれるが、真珠湾攻撃から5カ月後の1942年4月の最初の空襲から、最も被害の大きかった1945年3月10日を含めて終戦の日まで130回以上もの連続的な空襲がおこなわれ、東京都の調査資料には、死傷者・行方不明者は25万670人、罹災者は304万4197人と記録されている。犠牲者の数だけ見ても広島・長崎、沖縄戦をこえる規模だ。
(写真は、焦土と化した東京。本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもの。右側にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館。
U.S. military photography (米軍撮影) - http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html)
日本が真珠湾を攻撃した理由としては、当時の日本と中国とは日中戦争を行っている中で、アメリカは中立の立場をとっていました。
しかし日本が中国・東南アジアに経済圏を作ろうとした動きに対してアメリカが反発し日本に経済制裁を実施しました。(ABCD包囲網)
その経済制裁の内容に日本への石油輸出をしないという内容が含まれ、また更には日本が中国から兵を引き上げることを要求されてしまいました。
そこで、当時首相に就任した東条英機によって真珠湾攻撃が実行されたのでした。
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沖縄本土上陸前の攻撃(3月23日)
沖縄本土上陸「地上戦(4月5日まで)」
沖縄全土をほぼ占領(6月21日)
日本に打ち込まれた砲弾の数約40000発
艦載機(軍艦に搭載された戦闘機)での攻撃1600機
沖縄戦による日本側の死者・行方不明者の数は188,136人とされています。
アメリカとその連合国軍側の死者・行方不明者は20,195人とされているので、日本側は約9倍の死者・行方不明者となっています。
沖縄戦は1945年(昭和20年)3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、沖縄本島での組織的な戦闘は4月1日に開始、6月23日に終了した。連合国軍の目的は、日本本土攻略のためのマリアナの基地と共同体制をとれる対日本本土爆撃のための航空基地確保と、九州南部および関東平野の侵攻作戦(ダウンフォール作戦)の補給基地の確保であった。日本軍の目的は、大本営(主に日本海軍軍令部)が特別攻撃隊を主力とする航空攻撃により連合国軍に大打撃を与えて、有利な条件で講和を結ぼうという「一撃講和」を目指していたのに対し、現地の第32軍司令部は当時想定されていた本土決戦に向けた持久戦を意図するという不統一な状況であった。第32軍はサイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、ペリリューの戦い・硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦(縦深防御)を基本方針として戦い、特に首里(現・那覇市の一部)北方で激戦となった。海上では大本営の決戦構想に基づき特別攻撃隊を中心とした日本軍航空部隊が攻撃を繰り返し、戦艦「大和」などの日本海軍残存艦隊による「沖縄特攻」も行われた。
1945年(昭和20年)5月末に第32軍の首里司令部は陥落し、日本軍は南部に撤退したが6月下旬までに組織的戦力を失い、6月23日には牛島満司令官らが自決。その後も掃討戦は続き、連合国軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言し、最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは9月7日である。
陸海空において両陣営の大兵力が投入された。連合国軍のアメリカ軍側の最高指揮官であった第10軍司令官サイモン・B・バックナー・ジュニア中将が日本陸軍の攻撃で戦死するなど、フィリピンの戦いや硫黄島の戦いと並び太平洋戦域のみならず第二次世界大戦における最激戦地のひとつとなった。使用された銃弾・砲弾の数は、連合国軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された。地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため「鉄の暴風(英: Typhoon of Steel)」等と表現される。残された不発弾は、70年を経た2015年(平成27年)でも23トンにものぼり、陸上自衛隊などによる処理が続く。1トン爆弾も本土復帰の1972年(昭和47年)以降だけでも6件見つかっている。
沖縄での両軍および民間人を合わせた地上戦中の戦没者は一般に20万人とされるが、実際の数字は解明されていない。その内訳は、沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の日本軍兵士が65,908人、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人で28,228人が現地召集の将兵である。戦前の沖縄県の人口は約49万人であり、この戦闘によって実に沖縄県民の約4人に1人が亡くなったことになる。アメリカ軍側は死者・行方不明者20,195人となったが、これは1944年12月に戦われた、西部戦線最大の激戦の1つであるバルジの戦いの戦死者最大約19,000人を上回り、アメリカ史上でも、オーヴァーロード作戦、第一次世界大戦におけるムーズ・アルゴンヌ攻勢に次いで3番目に死者が多い戦いであった。戦傷者は最大で55,162人、戦闘外傷病者26,211人を加えた人的損失は実に投入兵力の39パーセントという高水準に達したため、ハリー・S・トルーマン大統領らアメリカの戦争指導者たちは大きな衝撃を受けて、のちの日本本土侵攻作戦「ダウンフォール作戦」の方針決定に大きな影響を及ぼした。 イギリス軍は死者85人であった。
写真は、沖縄に第24師団を残留させる要因となった同師団が装備していた四年式十五糎榴弾砲(Wikipediaより)
硫黄島の戦いは、1945年2月19日から3月26日にかけて行われた、アメリカ軍と日本軍の激しい戦闘で、太平洋戦争末期における重要な戦略拠点を巡る戦いです。
戦いの背景
硫黄島は東京から南へ約1,200kmに位置する小さな火山島で、面積は約21平方キロメートル、中央には標高170mの摺鉢山があります。この島は日本本土への空襲を行うアメリカ軍にとって中継基地として戦略的価値が高く、日本側もこれを死守する必要がありました。戦いの直接的な契機は、1944年7月のサイパン島陥落で、アメリカ軍が日本本土への空襲を本格化させるための拠点を確保したことにあります。
戦力と戦術
アメリカ軍は空母16隻、戦艦8隻、兵士約11万人を投入し、艦載機と艦砲の支援を受けて上陸しました。一方、日本軍は約2万人で、栗林忠道中将の指揮の下、地下壕や要塞を駆使して徹底抗戦しました。日本軍は玉砕覚悟で戦い、アメリカ軍の圧倒的な物量差にもかかわらず、激しい抵抗を見せました。
戦闘の経過
戦闘は1945年2月19日に開始され、当初アメリカ軍は5日間での攻略を計画していましたが、日本軍の頑強な防御により約1か月以上に及ぶ死闘となりました。3月17日には日本軍守備隊が玉砕し、3月26日に栗林中将以下約300名が最後の総攻撃を敢行して壊滅、組織的戦闘は終了しました。
(Wikipediaより)
太平洋戦争を語る上で避けては通れない激戦地、ガダルカナル島。ここで日本軍が経験したのは、単なる「敗北」ではなかった。約2万人の将兵が命を落としたが、そのうち戦闘で亡くなったのはわずか5,000~6,000人。残りの約15,000人は、銃弾ではなく飢えと病魔に倒れたのだ。
「ガ島=餓島」と呼ばれるようになったこの戦場は、太平洋戦争における日本軍の攻勢から守勢への転換点となり、その後の敗戦へと続く長い道のりの始まりだった。
ガダルカナル島の戦いは、1942年8月から1943年2月にかけて、南太平洋のソロモン諸島にあるガダルカナル島で展開された日本軍と連合軍(主にアメリカ軍)の戦闘である。
基本データ
期間:1942年8月7日~1943年2月9日(約6ヶ月)
場所:ガダルカナル島(ソロモン諸島)
参戦国:日本 vs アメリカ・オーストラリア他連合国
日本側死者・行方不明者:約20,000人
うち戦闘死:約5,000~6,000人
うち餓死・病死:約15,000人
日本側航空機搭乗員戦死:2,362人
ガダルカナル島ってどんな場所?
ガダルカナル島は、日本から約5,500キロ離れた南太平洋のソロモン諸島に位置する、千葉県ほどの大きさの島だ。熱帯雨林に覆われたジャングルの島で、高温多湿、マラリアなどの熱帯病が蔓延する過酷な環境だった。
当時、この島はイギリス領ソロモン諸島の一部で、戦略的にはアメリカとオーストラリアを結ぶ線上に位置していた。日本軍にとっては、オーストラリアへの攻勢を支える前線基地として、また両国の連携を阻む要衝として重要な拠点だったのだ。
なぜガダルカナル島が戦場になったのか
1942年前半、日本軍は破竹の勢いで太平洋地域を席巻していた。東南アジアから南太平洋にかけて広大な地域を占領し、オーストラリアへの圧力を強めていた。
その一環として、日本海軍は1942年7月、ガダルカナル島に飛行場の建設を開始した。この飛行場が完成すれば、オーストラリアとアメリカの補給路を遮断し、さらなる南方作戦の拠点とすることができる——そう考えていた。
しかし、この飛行場建設が、予想外の大激戦の引き金となるのである。
戦いの始まり:日本軍の飛行場を奪ったアメリカ軍
完成直前の飛行場が奪われた衝撃
1942年8月7日、日本軍が建設していた飛行場がほぼ完成しようとしていたその時、アメリカ海兵隊の大部隊が突如上陸してきた。その数、1万人以上。
当時ガダルカナル島にいた日本軍は、海軍の設営隊約2,800人が主力で、戦闘部隊はわずかだった。圧倒的な兵力差の前に、日本軍はあっという間に飛行場を占領され、島の西側へと撤退を余儀なくされた。
これは日本軍にとって衝撃的な出来事だった。ミッドウェー海戦での敗北から間もない時期に、また重要な拠点を失ったのだ。大本営はすぐさま奪還作戦を決定する。
致命的な情報戦の失敗
ここで日本軍は、この後の戦いの運命を決定づける致命的な判断ミスを犯す。
東京の大本営は、島に上陸したアメリカ軍の兵力をわずか2,000人規模と推定したのだ。実際には1万人以上が上陸していたにもかかわらず、である。
この誤認には複数の要因があった:
アメリカの反攻時期の読み違え:大本営は、アメリカ側の本格的な反攻は早くても1943年以降と考えていた
偵察の不足:十分な偵察を行わず、限られた情報で判断した
敵への過小評価:日本軍の精神主義により、敵の実力を軽視する傾向があった
この誤認が、後に多くの将兵の命を奪う惨劇の始まりだった。
第一次攻撃:一木支隊の壮絶な全滅
わずか900人での突撃命令
飛行場奪還のため、最初に派遣されたのは一木清直大佐率いる「一木支隊」、兵力わずか約900人だった。
これは大本営が敵兵力を2,000人と見積もっていたためだが、実際には1万人以上のアメリカ軍が待ち構えていた。つまり、10倍以上の敵に対して突撃することになったのだ。
一木支隊は、当時の日本陸軍が最も得意とした夜間白兵突撃を敢行する。小銃の先に銃剣を装着し、闇に紛れて敵陣に突入、白兵戦で敵を圧倒する——それが日本軍の伝統的な戦法だった。
「血染めの丘」と化した戦場
1942年8月21日深夜、一木支隊は米軍陣地への突撃を開始した。
しかし、アメリカ軍は日本軍の夜間突撃戦術を研究済みだった。飛行場周辺に集音マイクを設置し、日本軍の動きを事前に察知していたのだ。
闇の中を突進してくる日本兵に対し、アメリカ軍は2方面から機関銃を集中させる十字砲火で応戦した。曳光弾が夜空を切り裂き、機関銃の銃声が鳴り響く中、次々と日本兵が倒れていった。
夜が明けると、海岸線は日本兵の遺体で埋め尽くされていた。一木支隊の戦死者は777人に達し、部隊はほぼ全滅。一木支隊長も自決した。
この地は後に「血染めの丘」と呼ばれるようになる。
増援部隊の投入:川口支隊と総攻撃の失敗
さらなる兵力投入の決定
一木支隊の壊滅を受けても、大本営は飛行場奪還の方針を変えなかった。次に投入されたのは、川口清健少将率いる川口支隊、約6,000人の兵力だった。
しかし、この時点でもまだアメリカ軍の兵力を正確に把握できておらず、精神力で勝利できると考えていた節がある。
精神力重視の軍事思想
当時の日本陸軍には、「精神力が物質的威力を凌駕する」という思想が根強く存在していた。陸軍の教科書とも言える「歩兵操典」には、攻撃的精神によって少数の兵力でも多数の敵を破れると記されていた。
この思想は、日露戦争での勝利体験などから生まれたものだが、太平洋戦争の時代には、アメリカ軍の圧倒的な物量と火力の前に通用しなくなっていた。
9月の総攻撃と再度の失敗
1942年9月12日から14日にかけて、川口支隊は総攻撃を敢行した。しかし結果は、一木支隊と同様の惨敗だった。
アメリカ軍の機関銃と砲撃の前に、日本軍の突撃は次々と阻まれ、多くの将兵が命を落とした。激戦地は「血染めの丘」と呼ばれ続けた。
それでも大本営は作戦の続行を決定する。
「餓島(ガトウ)」の始まり:補給の崩壊
なぜ「餓島」と呼ばれたのか
ガダルカナル島が「餓島(ガトウ)」と呼ばれるようになったのは、補給が完全に崩壊したためだ。
10月から11月にかけて、大本営はさらに多くの部隊を島に送り込み、最終的に上陸した将兵は3万人を超えた。しかし、これらの部隊に十分な食糧や弾薬を届けることはできなかった。
制海権・制空権の喪失
アメリカ軍は、奪取した飛行場(後にヘンダーソン飛行場と命名)から航空機を飛ばし、周辺の制空権を確保した。さらに海上でも、日本の輸送船団を次々と撃沈していった。
日本軍の補給路は完全に遮断されつつあった。
「ねずみ輸送」の悲劇
大型輸送船が使えなくなった日本軍は、輸送に適さない駆逐艦や小型舟艇を使った補給を試みた。夜間に少しずつ物資を運ぶこの作戦は「ねずみ輸送」と呼ばれた。
しかし駆逐艦では大型兵器は運べず、食糧も全く足りなかった。昼間はアメリカ軍機に狙い撃ちされ、多くの駆逐艦が沈没した。
島に上陸した将兵たちは、日に日にやせ衰えていった。
飢餓と病魔
ある少尉の証言によれば、最後に配られた食糧は「乾パン2粒とコンペイ糖1粒」だけだったという。
将兵たちは飢えに苦しみ、ジャングルの草木や虫を食べて飢えをしのいだ。しかし栄養失調に陥り、そこにマラリアや赤痢などの熱帯病が襲いかかった。
「生きているものと、それから腐ったものと、白骨になったものが、枕を並べて寝たまま動かない」——これが当時の戦場の実態だった。
戦闘で死ぬのではなく、飢えと病で死んでいく。「餓島」の地獄が現実となったのだ。
日本軍の敗因を徹底分析
敗因1:情勢判断の甘さ
ガダルカナル島の戦いにおける日本軍の最大の敗因は、情勢判断の根本的な誤りだった。
アメリカ軍の兵力を10分の1に誤認
アメリカの反攻時期を1年以上読み違え
敵の戦力と戦略を正確に把握する情報収集体制の欠如
現代のビジネスで言えば、市場調査を怠って競合を過小評価し、大失敗するようなものだ。戦争においてこの代償は、数万の命という形で支払われた。
敗因2:精神力の過大視と物量の軽視
日本軍は精神力を極端に重視し、物質的な戦力(兵器、弾薬、食糧)を軽視していた。
「大和魂があれば勝てる」という精神論は、日露戦争の成功体験から生まれたものだったが、第二次世界大戦の時代には完全に時代遅れになっていた。
アメリカ軍は:
圧倒的な工業生産力
豊富な物資と補給体制
科学的・合理的な戦術
これらを備えており、精神論だけでは到底太刀打ちできなかった。
敗因3:補給軽視の戦略
日本軍は広大な太平洋に兵力を展開したものの、補給体制は極めて貧弱だった。
「兵站(へいたん)」——つまり補給や輸送といった後方支援は、軍事作戦の生命線だ。しかし日本軍は前線での戦闘を重視する一方、地味な補給業務を軽視する傾向があった。
結果として:
前線に十分な食糧が届かない
弾薬が不足して戦えない
医薬品がなく病死者が続出
という事態を招いた。これは単にガダルカナル島だけの問題ではなく、太平洋戦争全体を通じた日本軍の構造的欠陥だった。
敗因4:陸海軍の対立と組織的責任回避
10月の総攻撃が失敗に終わった後、撤退すべきという意見が出始めた。しかし陸軍と海軍の対立が激しく、誰も責任を取って撤退を決断できなかった。
海軍:最初に飛行場を建設したのは我々だ
陸軍:地上戦で苦戦しているのは我々だ
両者とも「撤退=失敗の責任を負う」ことを恐れ、決定を先送りにした。その間にも、島では毎日のように将兵が飢えと病で死んでいった。
大本営が正式に撤退を決定したのは1942年12月末、実際の撤退が行われたのは1943年2月に入ってからだった。もし2ヶ月早く決断していれば、何千人もの命を救えただろう。
これは現代の組織論でもよく指摘される「責任の所在不明確による意思決定の遅延」の典型例だ。
敗因5:柔軟性の欠如
日本軍は一度決めた作戦を変更することを「弱さ」と見なす文化があった。状況が変わっても作戦を続行し、被害を拡大させる——この硬直性もガダルカナルでの敗北の一因だった。
一方、アメリカ軍は状況に応じて柔軟に戦術を変更し、日本軍の夜間突撃に対する有効な対策を次々と編み出していった。
壮絶な撤退作戦:「ケ号作戦」
ようやく決まった撤退
1942年12月31日、大本営はついにガダルカナル島からの撤退を正式決定した。作戦名は「ケ号作戦」。
しかし大本営は、この撤退を「転進」と呼び、国民には「部隊は目的を達成したため他の地域に転進した」と発表した。敗北を認めず、真実を隠蔽したのだ。
決死の撤退作戦
1943年2月1日から7日にかけて、3回に分けて撤退作戦が実行された。
駆逐艦20隻が投入され、約1万1,000人の将兵が島を脱出できた。しかし、歩けない重傷者や重病者は島に置き去りにされたという。
撤退できた将兵も、多くが極度の栄養失調とマラリアに苦しんでおり、「生きた骸骨」のような姿だったと記録されている。
島に残された者たちがどのような運命を辿ったかは、想像に難くない。
数字で見るガダルカナルの戦い
日本側の損害
人的損害
上陸した将兵:約31,000人
戦没者:約20,000~21,000人
うち戦闘死:約5,000~6,000人
うち餓死・病死:約15,000人
撤退成功者:約10,800人
航空機搭乗員戦死:2,362人
物的損害
艦艇多数喪失(駆逐艦、巡洋艦など)
航空機数百機喪失
輸送船多数撃沈
アメリカ側の損害
人的損害
戦死:約7,100人
負傷:約7,800人
アメリカ側も決して軽微な損害ではなかったが、日本軍の損害率と比べると大きな差がある。特に日本軍の場合、戦闘以外の死者が圧倒的に多いことが特徴的だ。
戦闘死vs餓死・病死の比率
日本軍戦没者約20,000人のうち:
戦闘死:25~30%
餓死・病死:70~75%
この数字が「餓島」の実態を物語っている。銃弾ではなく、飢えと病が兵士を殺したのだ。
生き残りの証言:地獄を見た兵士たち
「人間が人間でなくなる」体験
ガダルカナル島から生還した元兵士たちの証言は、想像を絶する過酷さを伝えている。
ある生存者は語る:
「最初は仲間の死体を見ると悲しかった。しかし次第に何も感じなくなった。死体の横で飯を食い、死体を枕にして眠った。人間が人間でなくなる瞬間を体験した」
食糧を求めてさまよう日々
将兵たちは食糧を求めて:
ジャングルの草や木の根を食べた
虫やカエルを捕まえて食べた
倒れた戦友の所持品から食糧を探した
米軍の残飯を漁った
ある兵士は、ヤシの実を見つけると狂喜したという。普段なら見向きもしない食べ物が、命をつなぐ宝物となった。
マラリアとの戦い
飢えと並んで将兵を苦しめたのが、熱帯病、特にマラリアだった。
高熱と悪寒に襲われ、体力を奪われていく。薬もない、食糧もない状況で病にかかれば、それは死を意味した。ジャングルの中で、発熱して動けなくなった兵士は、そのまま衰弱死していった。
ガダルカナル戦の歴史的意義
太平洋戦争の転換点
ガダルカナル島の戦いは、太平洋戦争の大きな転換点となった。
日本軍の攻勢の終焉
1941年12月~1942年6月:日本軍の快進撃
1942年6月:ミッドウェー海戦で敗北
1942年8月~1943年2月:ガダルカナルで大敗
1943年以降:完全に守勢へ
ガダルカナル以降、日本軍は二度と大規模な攻勢に出ることができず、じりじりと後退を続けることになる。
アメリカの「飛び石作戦」の始まり
ガダルカナルでの勝利は、アメリカ軍の太平洋反攻作戦の第一歩となった。
この後、アメリカ軍は:
ソロモン諸島を北上
ニューギニア方面へ進出
マリアナ諸島攻略(サイパン、グアムなど)
フィリピン奪回
硫黄島、沖縄へ
という「飛び石作戦(アイランド・ホッピング)」を展開し、着実に日本本土へ迫っていく。
ガダルカナルは、その記念すべき第一歩だったのだ。
日本軍の構造的問題の露呈
ガダルカナルの戦いは、日本軍の抱える構造的問題を明らかにした:
情報軽視:敵情把握の甘さ
精神主義:物量を軽視する思想
補給軽視:兵站の重要性への無理解
組織の硬直性:柔軟な判断ができない
責任回避:陸海軍の対立と意思決定の遅延
これらの問題は、ガダルカナルだけでなく、この後のペリリューの戦い、硫黄島の戦い、レイテ沖海戦など、太平洋戦争の各戦線で繰り返されることになる。
ガダルカナルは、日本軍の敗北のパターンを確立した戦いだったとも言える。
「もしも」の歴史:ガダルカナルで勝てた可能性はあったのか
初期段階での適切な判断があれば
歴史に「もしも」は禁物だが、考えてみる価値はある。
もし日本軍が:
アメリカ軍の兵力を正確に把握していたら
最初から十分な兵力を投入していたら
補給体制を確立してから作戦を開始していたら
早期に撤退を決断していたら
結果は変わっていただろうか?
戦略レベルでの無理
実は、ガダルカナルでの勝利自体が、戦略レベルで非常に困難だった可能性が高い。
日本の国力vs アメリカの国力
鉄鋼生産:日本580万トン vs アメリカ6,070万トン(約10倍)
石油生産:日本はほぼゼロ vs アメリカは世界の約60%
GDP:約10倍の差
人口:約7,000万人 vs 約1億3,000万人
この圧倒的な国力差を考えれば、長期戦になればなるほど日本に勝ち目はなかった。ガダルカナルで一時的に勝利したとしても、アメリカは何度でも攻めてくることができた。
それでも被害は減らせた
戦略的勝利は困難でも、戦術的判断の改善で被害は大幅に減らせたはずだ。
特に:
10月の総攻撃失敗後、すぐに撤退を決断していれば
補給不可能と判明した時点で作戦を中止していれば
約15,000人の餓死・病死者の多くは防げたかもしれない。
この「見込みのない作戦を続けて無駄な犠牲を出す」パターンは、この後のアッツ島の戦いやインパール作戦などでも繰り返される。日本軍の組織的病理だったと言えるだろう。
ガダルカナル戦と海戦:夜戦の激闘
陸上戦だけではなかった
ガダルカナルの戦いは陸上戦だけではなく、周辺海域でも激しい海戦が繰り広げられた。
日本海軍とアメリカ海軍は、約6ヶ月間に大小様々な海戦を戦い、多数の艦艇を失った。主な海戦には:
第一次ソロモン海戦(1942年8月9日):日本軍の夜戦勝利
第二次ソロモン海戦(1942年8月24日):痛み分け
サボ島沖海戦(1942年10月11日-12日):アメリカ軍勝利
南太平洋海戦(1942年10月26日):戦術的には日本優勢も戦略的影響は限定的
第三次ソロモン海戦(1942年11月12日-15日):アメリカ軍勝利、日本の輸送作戦失敗
ルンガ沖夜戦(1942年11月30日):日本軍勝利も戦略的意味は薄い
日本海軍の夜戦技術
日本海軍は夜間戦闘に優れており、特に戦争初期には夜戦で多くの勝利を収めた。
日本海軍の優位点:
優秀な光学機器(夜間用双眼鏡など)
厳しい訓練による夜間射撃技術
強力な九三式酸素魚雷
夜戦戦術の熟練度
第一次ソロモン海戦では、日本の巡洋艦部隊がアメリカ・オーストラリア艦隊を夜襲し、巡洋艦4隻を撃沈する大勝利を収めた。
しかし海戦でも補給は届かず
海戦で勝利しても、ガダルカナル島への補給は成功しなかった。
アメリカ軍がヘンダーソン飛行場を確保している限り、昼間の海上輸送は不可能だった。夜間に駆逐艦で少量の物資を運ぶ「ねずみ輸送」では、3万人の将兵を養うには全く不足していた。
11月の第三次ソロモン海戦では、日本軍が11隻の輸送船で大量の増援部隊と物資を送ろうとしたが、アメリカ軍の猛攻撃により輸送船団は壊滅。6隻が撃沈され、残りも大破して浜に乗り上げたところを空襲で破壊された。
この失敗により、ガダルカナルへの大規模補給は完全に不可能となり、島の将兵の運命は決まったも同然となった。
(Wikipediaより)
1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、1940年にはフランスがドイツに敗北し全土をドイツ軍の占領下に置かれ、その後親独政権であるヴィシー政権が成立した。これを受けてフランスの植民地政権がヴィシー政権側につくことを選択したことで、1940年7月27日にドイツとの間で日独伊三国同盟を結んでいた日本政府(第2次近衛内閣)は「時局処理要綱」において仏印進駐を決定。8月30日に松岡・アンリ協定が結ばれ、ヴィシー政権およびフランス植民地政府が日本の経済的優先権および軍事的便宜を認める見返りとして、日本がインドシナにおけるフランスの主権とインドシナの領土保全を約束することで合意した。
このため仏印進出は平和進駐となることが通達されていたが、9月22日には大日本帝国陸軍が越境し、これを受けてフランス軍と第5師団(中村明人中将)が衝突し、日本軍がランソンを軍事制圧する。9月26日に日本軍は北部インドシナに進駐し、仏印援蔣ルートは遮断された。国境監視団は澄田睞四郎少将(澄田機関)が行った。ベトナム人は日本軍を、過酷な植民地支配を続けるフランス人を追い出した「救国の神兵」として歓迎し、さらに駐留日本軍はベトナム国民党などの独立運動を支援しようとする。しかし、松岡・アンリ協定によってフランスのインドシナ領有を尊重する約束が交わされており、東京の大本営は独立支援を許可しなかった。
その2か月後にフランス軍が再度ランソンに進軍。このとき、澄田機関から独立運動を応援するといわれていたチャン・チョン・ラップらが決起するが、フランス軍に制圧され、青年独立義兵が多数処刑されるランソン事件が起こる。逃れた義兵は中華民国でベトミンに合流するが、この事件は日本軍がベトナムの愛国者を見殺しにした事件としても記憶される。
ベトミンはソ連と中国共産党からの軍事支援を受けるまでは装備も乏しかったが、1946年4月には独自の軍士官学校を二校設立した。一校は北部ソンタイにあり、教官は日本軍に追われて以来ベトミンに合流していたフランスインドシナ軍の下級将校であった。もう一校は中部沿岸のクァンガイ陸軍士官学校で校長は中国共産党のグエン・ソンだが、教官は元日本軍の士官や下士官であった。このような残留日本兵は「新ベトナム人」とよばれた。日本軍インドシナ駐屯軍参謀の井川省少佐はベトナム名レ・チ・ゴといい、ベトミンに武器や壕の掘り方、戦闘指揮の方法、夜間戦闘訓練などの技術、戦術などを提供した。また、井川参謀の部下の青年将校中原光信はベトナム名をヴェト・ミン・ゴックといい、第二大隊教官としてベトミンに協力した。ほかにも石井卓雄、谷本喜久男(第一大隊教官)、猪狩和正(第三大隊教官)、加茂徳治(第四大隊教官)らがいた。 日本敗戦後、ベトミンに協力したインドシナ残留日本兵は766人にのぼる。また、武器は中国共産党から提供されたが、多くは日本軍から鹵獲したもので、38式小銃などが多かった。
1946年11月20日、ハイフォン港での銃撃事件を口実にフランスとベトミンとの間で全面交戦状態が始まり、インドシナ戦争(第一次インドシナ戦争)が勃発した。フランス軍は12月19日にハノイのベトナム民主共和国政府へ武力攻撃を開始し、12月20日、ホーチミンは全国抗戦声明を発表した。
【われわれは平和を切望し妥協を重ねてきたが、妥協を重ねれば重ねるほどフランスはわが国を征服しようとしている。われわれは犠牲を辞さない。われわれは奴隷とはならない。すべての老若男女に訴える。主義主張、政治性向、民族を問わず、立ち上がり、フランス植民地主義と戦い、国を救おう---ホー・チミン抗戦声明】
フランスは、国民の人気が高かったバオ・ダイ帝を担ぎ出し、1948年6月5日にサイゴンに「ベトナム臨時中央政府」を発足させる。大統領はグエン・ヴァン・スアン。翌1949年3月にはサイゴン市(現ホーチミン市)を首都とするベトナム国を樹立する。フランスはバオ・ダイ政権を唯一の正当な政府と宣言し、ベトミンを徹底的に弾圧すると表明した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89
(写真はホー・チ・ミン)
(Wikipediaより)