光で世界の闇を照らす⇒古代から続く秘密

ユダヤ人と称する人たち(シオニスト)が聖典として崇め、
その指針に従っているのが『タルムード』です。
そこには、「これを読んだ非ユダヤ人(キリスト教徒他)は殺せ」
と書いてある。
そして今でもパレスチナで子どもや女が
拳銃に脅されて暴力を受け痛めつけられている。
その元になっているのはこの教義『タルムード』です。
だからこれまでタブーとされてきました。
実際に、それを知った多くの英雄が殺されました。

今こそ、「世界平和の為にそこに何が書いてあるか?」
それをみんなで共有しましよう!

ユダヤ教の聖典『タルムード』





そこには信じられないほど邪悪な事が書かれています。



全ての非ユダヤ人(キリスト教徒)を皆殺しにすることを求めています。

・・・・・
ロシアはキリスト教徒が多かった。
実際にロシア革命はユダヤが起こした革命でキリスト教徒の六千万人が殺された、と言われています。
あらゆる階層のキリスト教徒が無惨に殺され、社会が崩壊したのです。
だから、ソビエト社会主義共和国連邦は、社会が機能しなくなった。
・・・・・

非ユダヤ人の財物は、本来はユダヤ人のものを預けているだけだから、奪っても良いと。

その為に、嘘や騙しがあっても構わない。

非ユダヤ人は、ゴイ(獣)だから殺しても良い。

そして最悪なのは、彼らの祭典の人身御供は非ユダヤ人の6〜8歳の男の子(理想)が必要です。そして殺して生の血を飲みます。

「遺体は獣だから葬儀をしてはならない」と規定されているので、山や谷に放り投げる事になります。

それが発覚して、親たちが運動を起こして、国外追放(例えばスペインなど)の憂き目に合うのを繰り返しています。

最も有名な事件がリンドバーグの息子が誘拐されて殺されました。それは、その子の祖父のチャールズ・リンドバーグ下院議員が、連邦準備制度の設立を阻害する運動の旗手だったからです。

また遺体の処理に困って出来たのが、◯◯◯のハンバーグです。

そして、この恐ろしい事は、現在でも続いています。

あの肉の中に、誘拐されて血を抜かれた子どもの肉が豚肉と一緒にミンチになっています。

写真は、国立国会図書館蔵の『ユダヤ教のタルムード』
翻訳は久保田栄吉氏です。

【お詫び】この書物は活版印刷で、その本をコピーしたものが日本の国立国会図書館にあったものです。活字の文字が潰れて読み取れないところが多々あります。努力しましたが諦めた所は〇〇で潰してあります。何卒ご容赦下さい。内容は掴めると思います。


『ユダヤ教のタルムード』序文






 1917年まで、世界の一大強國をもって誇った帝制ロシャは、何が故に崩壊した乎?

 しかも國家興亡の岐路に立って外敵と血の死闘を続けている真只中に、どうして革命が勃發した乎?

 この原因に就ては、勿論幾多の事情があるが、編者は結論を劈頭(へきとう)に提げ來って言ふ!

「この國家崩壊の革命をもたらした最大因由は、ユダヤの陰謀にある」と。何となれば、彼等が過去數千年にわたって踏襲してきたその信條たる

【各國家内に紛争を起さしめ、或は國家と國家とを相戦はしめ、而して其の間隙に乗じ、その国家の富を根こそぎ吸収するに努めて、政治的、經濟的基礎を破壊し、国家の潰滅を謀ること】

【国民に虚栄と奢侈とを追及せしめ、風俗壊亂をはかり、飲酒と頹廢的享樂に誘致して、愛國心を喪失せしむる強度の魔薬を振り撒くこと】

【戰爭、革命、政治、經濟、宗教等の騒乱は、我われが努力している世界統一の宿望を達成する機運を促進するものである。殊に醫師は、各家庭に出入する機會が多いので、ユダヤ永劫の仇敵たるキリスト教徒の奪命に努力せねばならぬ】

の数々を實現したからである。しかもこれは其の信條の眞の一端にすぎないが、これ等の信条は、彼等の祖先が幾多の年月を問して編み出した宗教『タルムード(經典)』の教訓を遵守して、世界征服の陰謀をもって、他民族を根滅せんとして来ている歴史が立證するからである。

 彼等が、この神人倶に赦さぬ敎訓を貫徹せんがために、他民族に向って突進する態は、 正に血に飢えた猛獸そのものである。金を蒐集するための食婪非道(しょくらんひどう/無慈悲)の蛮行も正義と解し、國家破壊のための総ての陰謀術策も神が選び給ひしユダヤ人の神聖なる天職としている。

 元来ユダヤ人は、西暦七十年ローマ帝王によって国を亡ぼされて以来、あたかも蜘蛛の子の四散せし如く、各國を轉々流浪所謂散住の民として今日に至ったのであるが、正義、人道の観念を他民族と異にする彼等は、到る所に於てその國民性を發揮しては、壓迫され、蛇◯視され、中世紀に於て遂にスペイン、フランス、オーストリヤを追放されるに至った。
 ロシヤには最初西曆千二三百年頃より、ギリシャ方面より流れ込んだが、その後ドイツ、ポーランド、ウクライナヤの各所より、大々的団体を組んで移住したのである。

 爾来ロシア人との間に幾多の紛争が惹起されたが、遂に1914年、彼等の陰謀によつて世界大戦が勃發して、この機会に乗じてロシアの革命を起し、帝制ロシアを崩壊せしめたのである。

 ユダヤ人が、この機会にロシア大帝制を破壊するために、政治、經濟方面の策動は勿論なかんづく国民の愛國心喪失に全力を傾注した。そして國民を堕落させるために、遊蕩享樂、風俗壊亂の亡國的邪道を行進すべき進軍喇叭を吹奏した。この喇叭に歩調を合わして、颯爽と勇進した軍隊は如何なる部除であったか?
 これ等の部隊は上層階級、資産家、重役と高級社員、戰時成金、時代の波に乗った勞働者の成り上り者、暗成金及び脱税者、大學生、虚荣の強い女性、尊い女の誇りを安価に◯ぐ娘子軍等々の混成聯合部隊であった。

 勇敢なるこの部隊の出動によって、當時のロシアの都会はどうであったか、編者の在留していたペトログラードの如きは、レストラン、カフェ、喫茶店、酒場、劇場、活動等の歡樂境は勿論、ホテル、宿屋、下宿屋までが大入超滿員の繁栄を呈した。この亡國的變態景氣は、物價の高騰に伴ふ兌換券の膨脹に起因したことはいうまでもない。

 この氾濫した兌換券の吸収を憂慮したのは、政府要路の重職にある憂国の大官であり、 好機逸すべからずとして、ニタリと薄氣味の悪い冷笑を洩らしたのはユダヤ人であった 。

 政府は國家の危機を叫んで、國防献金、公債の消化、物資の節約、産業の擴充、預金や保険の獎勵に懸命努力しても、ユダヤ人の撒いた猛烈な、個人主義,利已主義,享樂主義の魔薬に、愛國の精神も、憂国の志も、麻痺してしまった亡國的非國民の耳には、蚊の音ほども、殆んど聴従するものがなかった。そしてただただ、眼を邪◯に光らして、一路刹那的享樂と◯蕩氣分とに浮れ進んだ。

 この亡國的非國民の心理である◯◯遊蕩の眞髓をつかんだユダヤ人は、忽ち全市の重なるレストラン、カフェ、テャトル、ホテル等を手に入れた。そしてレストランやカフェの一部を改造し、舞臺と待合室とを設備したのである。この舞台からは、夕刻になると、劇◯たるオーケストラの音や猥褻極まる歌詞が流れ出て、これ等亡國の民を恍惚たらしめた。

 便所の側に新設した四面を鏡で張つた待合室には、二三十人の買笑婦が控え、用を達す振りして、その實、女を漁る老若の男を誘惑した。この光景はひとり編者ばかりでなく、当時在留した邦人の直接目撃したところであつて、戦時下のロシヤの首都がこの状態では、 もはや戦争には勝目がない、また戦争に負けなくとも、必ず國內的に何か重大な事件が勃発すると豫想された。

 果せるや慘烈極まる革命となり、さしものロマノフ王朝も一朝にして崩壊した。これは前述の如く全くユダヤ人の陰謀であり、そしてその思ふ壺にはまったわけである。

「他山の石以って、わが玉を磨くべし」勿論、わが国難は彼等ユダヤ人の策謀の如きに徴動だもするものではないが、併し現下のわが国状はどうか? 五年に亘る聖戦と、東亞共榮圈確立の大聖業を阻止され、延いては万邦無比のわが国家を焼き拂はんとする火の粉が、南北の烈風に煽られてもの凄く振りかっている秋である。

 この筆國(ちょうこく)以来の一大国難に遭遇せるわが國民は、敢然起って國策の貫徹と、火の粉の掃ひ除けを斷行せねばならぬ。祖國擁護の前には如何なる艱難辛苦も物の数でない。一旦緩急あって義勇公に奉ずるのみである。然るにおや、都市に於ける人心の動きは、この國難を克服せんとする姿であらうか? この姿は、ユダヤ人の振り撒いた魔薬に魅惑された崩壊前の帝制ロシャ国民の実情に◯◯たるものはないか? われ等は断言する。一部國民の間にかかる者があると――。

 そしてこれは眼に見えざるユダヤ人の策謀であることも判る。実にユダヤこそ、現下のわが図に最も警戒すべきパチルスである。
 本書は、何故にユダヤ人が、非ユダヤ民族に對してかかる辛辣なる毒手を振ふにいたったかという原因、即ちその歴史的事實を詳述し、併せてこれを警戒すべき要貼を説いたものを、ロシヤ帝制時代のデ・グラッペ將軍が譯出した「ユダヤ人とタムルード」を翻訳し    て、これを主体とし、樋口艶之助著「猶太禍」を参考に編したものである。

 原書に拘泥するあまり、聊(いささ)か行文に難解の点あるを免かれないが、今日の時局に対し一片耿々(こうこう/気にかかる)の至情禁ずる能はず、敢えて菲才を顧みず世に問うた次第である。そしてこれが幾分でも、ユダヤ禍の深化を防衛する資料ともならば、編者の本望これに過ぎない。

昭和十六年十一月

久保田榮吉
(7p)



翻訳者より   伯爵  デ・アラッペ



 翻譯者より

 フラウィアン・ブレー二エの著書の譯本を読者に提供するに当って、余はユダヤ人問題に興味を有する諸君に一応著者を紹介する義務がある。もっとも現代に於て、この問題に興味を有しない者は恐らく多くはなからう。

 この問題は、これを如何なる角度から見てもその重大性を否(いな)む事は出来ない。世界のあらゆる國家に普及しつつあるユダヤ排斥の傾向は安定性を失った世界の情勢に最も深刻な脅威を与えてゐる。今や誰もがユダヤ問題を話題に上してゐる。そして誰もがこれを種々に論議してゐる。しかし、この問題の本質は何であるか、斯(か)くまで皆から嫌悪されてゐるユダヤ人は、抑(そもそ)も何者であるかを、知つてゐる者は多くなからう。

 惟(おも)ふに、ユダヤ人を知らんとせば、先づ概要なりともその歴史とその世界とを知らねばならぬ。そしてこの要求を充たし得るものは本書である。本書はバビロン幽囚以後に於けるユダヤ人の歴史の本質を最も正確なる資料によつて簡潔に叙説し、且つユダヤ人の世界観の本質を、そのバイブル諸書に基いて概論している。

【本譚文を、余は、1919年にボリシェヴェキのために悶死せしめられたるレフ・リウォウィチ・キスロフスキー氏の、輝かしき記念にささぐ。】

伯爵デ・アラッペ

発行者より 公爵 エム・ゴルチャコス



 發行者より

 余の敬愛する親友、故ドウミトリイ・ミハイウィチ・グラッペ伯の翻訳にかかる、ユダヤの『タルムード』の好著を發行するに當り、余は深き痛恨を禁じ得ざるものである。

 國家多事にして、しかも人材の乏しいわれ等の時代に際し、ドゥミドリイ・ミハイロウィチの如き人物の逝去せしことは、特に余等をして悲痛な哀悼を感ぜしめるものである。何ごとにも極めて敏感で、推理力の鋭敏であった伯は、マッソン結社とユダヤ人の危険を直ちに看破して、その生涯の最終數年を、この怖るべき妖禍に対する抗戦に貢献したのである。

 余は、伯の崇高なる文化的工作を継続する機会に恵まれたことを欣幸(きんこう)とするものである。

公爵 エム・ゴルチャコス

(10p)

緒 論



 歴史によりて惹起せられた総ての人種問題や宗教問題の中、ユダヤ人問題ほど恒久的な一般的な、そして解決至難な問題は未だかってなかった。

 われ等が如何に遠き過去に遡って見ても、ユダヤ人が他の民族間に散住し始めて以来、彼らがその在住する所の国民との間に、絶えず悲慘極まる流血の闘争が続けられた。
 彼等の此の散住は、ローマ帝国の軍隊が、かれ等をして其の祖国を棄てて世界の各所に離散せしめたいわ
ゆる『散居の時代』と呼称せらるる時代より遙かに古いのである。現代に於いてこのユダヤ人とキリスト教徒及び回々教徒との間の闘争が、外觀上幾分其の激化性を親和されし如く見えるのは、畢竟(ひっきょう)ユダヤ人が過去に於て、公然はばかるところなく赤裸々に露出してみた極端な邪悪の念を、今日巧みにカムフラージしているからだ。故に各国民の治安、物質的安定、宗教の自由若くは社育機構の堅實性を攪亂せんとする脅威の蔭に、猛悪極むる毒蛇がドグロを巻いているが如き、ユダヤ人の潜在するのを見出すのである。

 實際、ユダヤ人は社會的若しくは個人的生活の根本破壊を惹起して動乱の巷と化さしむべく、これに適する財政制度をつくり上げて、各國民存在の經濟機構を変革せしめた。そして全世界の覇権を握るべく、且つキリスト教に對する宿怨を晴らさんとして、各国に紛争を誘起せしめた。ユダヤ人はこれ等の目的を達成せんがために、自國民中より煽動者たる理論家を出し、これによつて世界到る所に共産主義の思想を傳播して、國家社會なる大建築に火を放ったのである。

 これ等煽動者や火つけ人足の名を挙げれば、ドイツに於けるカール・マルクス、ラッセリ、 ジンゲル、オーストリヤに於けるネイマエル、アドレル、ハルトマエル、デンマークに於けろジェマス・コエン、ルーマニヤに於けるドブルジャヌ・ヘレア、北米に於けるコン、 サムエル・ゴンベルス、リオン等の如きである。フランスも十二人のユダヤ人によりて寄附された七十八萬フランクを基金として聯合社會党の機關紙『ルマニテ』を發行している。

 さらに又全世界に於ける有力な新聞雑誌及報道機関は殆んどユダヤ人の経営であり、その編集長の七割はユダヤ人である。

 また、全世界に於ける文學及び藝、美術の各方面に亘り美風、習慣、公徳の頽廃を誘導する総ての計画の舞楽裏にも必ずユダヤ人の魔手が動いてゐるのである。
 なお世界の何れをとわず、ユダヤ人の在住する国家には敏腕なるスパイを配置してる。そして過去幾世
紀にわたって組織的に行はれつつある、大規模な堕落と破壊の工作は、今日に至るまで未だ解決し得られざる疑問としてわれ等の前に横たわっている。

 かかるユダヤ民の神秘的の力は何に起因するのであらう? 此の問題は、二千年余りにわたるイスラエル民の破壊的工作について、われ等が研究に着手するに當り、自ら腦裡に浮びくる問題である。

 現在に於ける事實も、また過去に於ける歴史も、われ等の憧憬するところの理想におよそ縁遠き此のユダヤ人・・・・・憎悪の外に偉大なるものを解せず、掠奪の外に勇気を知らず、 かれ等の周囲に横溢する汚濁の外に滿足を感じ得ざる 此のユダヤ人は、兎にも角にも神の摂理がかれ等から選らばれたる神の民を造り出すが爲めに、全世界の國民の間から選抜したる初代ユダヤ人の直系的子孫であるかれ等が、救世主それ自身を十字架にかけ、しかも釘づけにしたのみならず、今更に迫害しつ、ある信徒の奉するメッシヤ(ヘブライ語の救世主)の宗教は、世界の総ての民族中、只獨り『約束』(救世主を降さる、神の約束)を與へられたる彼等の遠き昔の祖先を、將來の希望を以つて養ひつつあったる宗教である。ヨハネ傳八章に次の句がある。

【「神はかくの如き優遇を他の國民に与えへざりき。またかくの如くにその裁きを現はさざりき」】

 如何にして金が鉛に化したのであらう?  如何にして神の選び給ひし民が阻害されたる民に變り果てたのであらう?  幾世紀の間救世主を待望しつ、空虚な日を送っていたユダヤ人が、救世主の現はるるや、如何にしてこれを十字架に釘づけにしたのであらう? 

 昔彼れ等の祖先モーゼは、シナイ山で愛と正義の約束の十誠を受けた。

一、唯一の神たるエホバの外は他の神を崇拝すべからず。

一、聖日を記憶せよ。

一、六日間働け。

 一、七日目の翌日は休め。神は六日を費して世界の萬物を造り、七日目に休み給へり。

一、殺す勿れ。

一、盗む勿れ。

一、嘘言する勿れ。

一、汝の父と母とを尊敬せよ。」

一、他の物を欲する勿れ。

一、姦する勿れ。

 然るに其の子孫は、今日われ等の指導の原理となり、そしてタルムード(ユダヤ人の戯世を教へ彼等が金科玉條として遵守している經典)と称せらる、憎悪と、殘虐と、掠奪との律法をもってすることができたらう。これが最も正確なる資料によつてタルムードと其の教義とを、受け容れることによつて生する結果との研究に着手するよりも、先に是非と開明せねばならぬ問題である。

 即ちわれ等はイスラエル民の墮落が如何にして生じたか、また此の堕落がユダヤ人の人種的特性に如何なる地盤を見出したか、如何なる政治的原動力がユダヤ人をして其の使命に対する叛逆を敢えてせしめ、その極、先づ神人なる救世主を殺害せしめ、爾後キリスト教に封する宿命的な永久の闘争を織続するに至らしめたかを明かにせねばならぬ。斯くして始めて、われ等は二千年の久しきにわたって轉廻しつつある、世界的政治運動の中心をなす難解の謎をとく鍵を見出し得るのである。(1-6p)


第一章  古代に於けるイスラエル民の叛逆

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 ユダヤ人の宗教的堕落を助成せしものが、その人種的特性であったと云ふことは、われ等のすでに述べた
通りである。

 実際ヤコブの子孫である所のユダヤ人は、早くから神から与えられた約束(その子孫から救世主が生れ、そしてパレスチナを与えられると云ふ)に当らざるものとなった。

 彼らの國民的存在が創始され、神がモーゼによって約束の地を占領するために、かれ等を召した其の當時に於て、すでに彼等はその心の底に、近東諸国の異邦民(ユダヤ人はユダヤ教を奉ぜざる諸國民を異邦民と呼称して蔑視する)の神々に封する抑へ難き憧憬を感じて
いた。

 この神々を崇拝する魅惑が非常に強かったので、かれ等は僅かな機会をも利用し、例へば神が彼等に与えたる立法者モーゼの暫しの不在に乗じて、一度しりぞけられた偶像を復興し、禁じられた敬礼をこれに捧げた程であって、ヤコブの子孫は、出埃及記の初め記錄されている時代から、既に斯る背教的思想を現はしていた。
 しかも神は彼等の斯る(かかる)態度にも拘らず、かれ等を選ばれた民として偉大なものになさんがために、多くの奇蹟を行いつつあった時に於てそうであったのだ。
 一つの周知の事実は、ある時ユダヤ人はシナイ山の麓に天幕を張って野営した時、モーゼは、全山に轟く雷鳴を、雲間に閃めく電光の中から、神に授けられた十戒を刻みつけた二板の石板を捧じて山を下った。モーゼは麓にあつたユダヤ民全体に向って神のかれ等を庇護する旨を告げやうとした。

 然るに豈(あに)計らん、ユダヤ人はモーゼの留守の間に、兄弟のアロンを強要して造らせた金の子牛の偶像を囲んで、これに対する禮拜の舞ひをしていた。斯(か)くまで早く豹變したユダヤ人の叛逆に対して、聖書(出埃及記三三章九節)は神の口から發せられた次の如き痛恨の言を記している。(8p)

【我れこの民を観たり、視よこれは項(うなじ)の強き民なりと。】



 (続き) 


   この聖書の言葉は、イスラエル民が其の叛逆を重ねて行い、放埒と、殘酷とを神體化して祀る近東諸國民の宗教に立ち戻る頑迷なる態度を表はす毎に聖書に重ねて宜べられてある。また年すでに老いたる豫言者サムエルが、自分に對するユダヤ人の忘恩を訴った時、
神は次の如き有名な言葉を宣べて彼を慰撫した。

【「汝等を斥(しりぞく)くる時、彼等は汝を斥くるに非ず、我を斥くるなり。それは今より我が彼等の王たらざらんためなり。彼等が汝に封して行ふ所は、我が彼等をエジプトの 引出せし時以來今に至るまで行ひしなり。彼等は他の諸神に事ふるがために我を捨てたり」(サムエル前書三章) 】

 われ等のすでに述べた如く、神の選抜はアブラハムとヤコブの子孫について、その祖先の功績に対する
褒賞であったが、それは此の同一の子孫の心に於て他の諸国民の歴史にその比を見難き程の反抗に逢着したのである。かれ等は自分の運命として◯った使命に怖をなして、ただ管(ひたすら)これを免かれんことを夢想していた。

 バイブルはユダヤ人の歴史の前半即ちかれ等がエジプトを出てからユダヤ王國建設に至るまでの西暦紀元前1096〜1625年に於て豫言者等及び國民指導者の偉大なる俤(おもかげ)を伝っている。それと同時にバイブル中にはこれ等の人物が、同胞の偶像崇拜癖と、絶間なき奮闘を続けつつあったことを物語っている。

 尙ほ二つの事情がユダヤ人の間に、その叛逆に封する生來の傾向を助成したのである。

 第一は、人種的血統の混淆(こんこう)であって、これか遠き昔からイスラエル民の大半の支派に於ける血統の單一性を弱めたのである。

 第二はユダヤ国に於ける政治的闘争の影響である。以下此の二つの原因を考究して見よう。

 イスラエル民が征服して移住していた土地は、約束の地全部ではなかった。その南部に住んでいたクリト島から出た剽悍(ひょうかん/猛々しい)な土民ペリシテ人は、彼等から征服されなかった。北部には強力なフィニキャ王國の都市があつたが、ここには只だアセル、ナフタリ、ダンの三支派のみ其の領域内に居住を許されて居たにすぎなかった。パレスチナの内部に於ては、カナン人の都市が久しい間ユダヤ人がますます強大化するに対して、個々の反對運動を起していたが、終りには其の領域を占領したるイスラエルの支派と帰属的条約を締結した。

 カナン人の都であつたエルサレムは、約十世紀の間獨立を保っていたが、紀元前1042年に至ってダビデ王の攻略する所となって、その王都とされた。この爭闘の結果、新たに移住して来たユダヤ人と、古代からこの地に住んでるた土着民との接近が行はれた。そして他國民との結婚がモーゼによつて嚴禁せられていたにもかかはらす、多くの場所に於ては混血が行はれ、カナン人の風俗と宗教は、イスラエル民の間に浸透し、カナン人の諸神の崇拝はユダヤ人をしてエホバの神に対する奉仕を忘れさせた。(11p)



(続き)

 これ等カンナ人の諸神はフィニキヤ人のそれと同一であつた。フィニキヤの町ツロと勇敢なるシドンの航海者等は、カルタゴのみならず、地中海の全沿岸、ヨーロッパの西岸と北岸アフリカの北岸、紅海に至るまで、彼等の寄航するあらゆる地に、彼等の崇拝する諸
神の祠堂を建設した。これはモロク及びアシタロテと称する神々であつた。モロクは牛を神としたものである。(或る地方ではこれをメリカル又はワアルと称していた)
    即ち内部の空虚となつている巨大な鋳鉄製の偶像を造り、その中に火を燃やして真っ赤に灼熟させ、 人身御供(ひとみごくう/生け贄)をこの中に投げこむ風習があった。

 この神の崇拜者は、最も苦痛な犠牲を拂はねばならなかった。それは長子を人身御供として捧げる義務を負うのであった。この厭忌(えんき)すべき礼拝式は、われ等の口にするさへ忌はしいことだ。

 ローマ人が、多年フィニキヤ人の支配下にあつたサルディニャを征略した時、灼熱したモロクの偶像を到る所に見た。偶像の内部に投入された人身御供の苦しみ喚(わめく)く声と、その外側で揚げる破れるやうな笑声と合して、果してこれが人間の世界であらうという戦慄すべき感じを与えたものであった。このやうな笑ひ声は、今日に至るまで 「サルディニャの笑声』と云はれている。(12p)

 アシタロテは淫慾の女神である。これに奉仕する者は、何れも神聖な者と称せられている淫乱な女であった。そして其の祭禮の日には、すべて婦人は淫蕩行爲を義務としていた。
 ユダヤ人が其の国を領有した後、士師の時代に於ても、王制の時代に於ても、かれ等の大半はモロクとアシタロテを崇拝し、これに祭壇を築いて奉仕した。そして自分の子女に對して、火中を通過する儀式を行つた。豫言者等はこの人間を犠牲にする風習のために、絶えずユダヤ人を譴責(けんせき)したが、この風習は今日に至るまでユダヤ人の間に向ほ廢止せられないで、其のいはゆる儀典的殺人に幾分此の風習の痕跡を見ることが出来る。

 この重要な問題をここで解説することは適當ではないと思ふが、この問題のために各國民は一再ならずユダヤ人を攻撃した。
 何となれば彼等の中の或る者が、この非人道的な行為を敢えてした時、他の者等が團結心のためにこれを庇護したからである。正教會諸聖人傳記中に、モロク宗を奉するユダヤ人に苦しめられて、殺された多数の児童の事蹟が記されてあることに想到せば、此の間の消息を知るに十分であらう。

 二十世紀の始め、僅か二十五年間に、各国政府のユダヤ人に対する好意があつたにも拘はらず、裁判手績により法律的に立證せられたるいはゆる「儀典的殺人犯」の数は十件に上がっている。

(続き)


 これ等カンナ人の諸神はフィニキヤ人のそれと同一であった。フィニキヤの町ツロと勇敢なるシドンの航海者等は、カルタゴのみならず、地中海の全沿岸、ヨーロッパの西岸と北岸アフリカの北岸、紅海に至るまで、彼等の寄航するあらゆる地に、彼等の崇拝する諸
神の祠堂を建設した。これはモロク及びアシタロテと称する神々であつた。モロクは牛を神としたものである。(或る地方ではこれをメリカル又はワアルと称していた)
    即ち内部の空虚となつている巨大な鋳鉄製の偶像を造り、その中に火を燃やして真っ赤に灼熟させ、 人身御供(ひとみごくう/生け贄)をこの中に投げこむ風習があった。

 この神の崇拜者は、最も苦痛な犠牲を拂はねばならなかった。それは長子を人身御供として捧げる義務を負うのであった。この厭忌(えんき)すべき礼拝式は、われ等の口にするさへ忌はしいことだ。

 ローマ人が、多年フィニキヤ人の支配下にあつたサルディニャを征略した時、灼熱したモロクの偶像を到る所に見た。偶像の内部に投入された人身御供の苦しみ喚(わめく)く声と、その外側で揚げる破れるやうな笑声と合して、果してこれが人間の世界であらうという戦慄すべき感じを与えたものであった。このやうな笑ひ声は、今日に至るまで 「サルディニャの笑声』と云はれている。(12p)

 アシタロテは淫慾の女神である。これに奉仕する者は、何れも神聖な者と称せられている淫乱な女であった。そして其の祭禮の日には、すべて婦人は淫蕩行爲を義務としていた。

 ユダヤ人が其の国を領有した後、士師の時代に於ても、王制の時代に於ても、かれ等の大半はモロクとアシタロテを崇拝し、これに祭壇を築いて奉仕した。そして自分の子女に對して、火中を通過する儀式を行った。豫言者等はこの人間を犠牲にする風習のために、
絶えずユダヤ人を譴責(けんせき)したが、この風習は今日に至るまでユダヤ人の間に向ほ廢止せられないで、其のいはゆる儀典的殺人に幾分此の風習の痕跡を見ることが出来る。この重要な問題をここで解説することは適當ではないと思ふが、この問題のために各國民は一再ならずユダヤ人を攻撃した。

 何となれば彼等の中の或る者が、この非人道的な行為を敢えてした時、他の者等が團結心のためにこれを庇護したからである。正教會諸聖人傳記中に、モロク宗を奉するユダヤ人に苦しめられて、殺された多数の児童の事蹟が記されてあることに想到せば、此の間の消息を知るに十分であらう。
 二十世紀の始め、僅か二十五年間に、各国政府のユダヤ人に対する好意があったにも拘はらず、裁判手続きにより法律的に立證せられたるいはゆる「儀典的殺人犯」の数は十件に上がっている。
 西暦紀元前976年に、ある政治的原因によつて、イスラエル氏の支派の大半に此の邪道的宗教が、全く其の根底を堅めたのであった。ユダヤ人の歴史の當初に於て、彼の政体は神権政体と民主的無政府態度の混合を宜していた。

【「当時はイスラエルに王なかりしかば、各人其の目に善しと見ゆる所を爲せり。」】

 かうした文句はバイブルの諸書に屡々(しばしば)繰り返されているが、此の政體は重大な欠点をもっていた。これがために其の周囲にある異敎の諸國民と對立していたユダヤ国は、常に弱体化されていた。何となれば、それ等諸國民は其の政体が何れも専制政治であったために皆戦いを好み、他国に對する侵略を事としていたからである。

 そこでユダヤ人は「われ等を率ひて、われ等の戦ひに闘はしめる王」を戴くために、王の選立を要求した。選立せられた王等は、その権力を執って後、尙、多くの年月を経なかったので、その時まで、神権の代表者として民を治なていた僧侶は、自分の権力の一部を奪われるため、王等を遇するに極めて冷淡であった。王等は又僧侶が真の神の奉仕者として民間に道義的勢力を有するを嫉むと共に、彼等は其の教権をもって自分等の放肆(ほうし)を抑制することを快らず(こころよからず)思っていた。(14p)

    其の結果、自然兩者の間に暗闘が生ずるに至った。それは紀元前1095年ユダヤ王に即位したソールの時代に最も激烈を極めたが、後40年を経た1055年、卑賤より身を起し敵フィリスタインの大軍を撃破した豫言者ダビデは、ソールの後を嗣いで王位に就いた。


(続き)


   此の時代には、対僧侶との紛争が一掃された。其の子ソロモンが王位についた1000年時代の始期は、國內大いに治まり、国民からは古代賢哲の再現なりと崇敬されたが、晩年に至り異邦民、異教徒の美人を寵愛し、奢侈(しゃし)に流れ、荒淫を極め、剰さ(あまつさえ/その上)へ教祖エホバの神にさへ仕へなくなった。これがため國內大いに乱れて僧侶との暗闘は再燃した。そして其の結果遂にイスラエル民の十二支派中から十支派の分裂を見るに至った。

 976年、ソロモン王没後、パレスチナの北部に住居していたイスラエル民の各支派には、エルサレムを美化する工事のための重稅に悩まされて、ソロモン王の子ロウオアム王に対して反旗を翻し、收稅のために派遣された役人アドラムを石をもって打ち殺し、◯に故ソロモン王の逆鱗に觸れてエジプトに◯去を餘儀なくされていた故王の將軍ヤラベアムを立てて王となした。これによつてユダヤ国は分裂して、再び融合し難き二國を形成した。即ちヤラブアムを王として戴いた北部のイスライル国と、ダビデ王の後裔に忠誠を守って、エルサレムを王都としていた南部のユダヤ国(大多数の人口を有するユダヤの支派から共の名を取った)であった。

【古来の傳説に根拠を有する此の二國に於けるイスラエルの十二支派の分配を認めて、イスラエル国を十支派より成るものとし、ユダヤ国をユダ及びべニャミンの二支派よりなるものとする。かかる分界法は、少くとも地域上の観点からいふ時は正確性を欠いていると言ひ得る。しかしユダの支派の領域内に突出しているシメオン支派の領域はレハべアム王の国、即ちユダヤ国の一部となった。

 従ってレハベアム王は、二支派を治めていたのではなく、事實三支派の王となつていた訳である。他の一面に於て、ペテロを主要な町としていたベニヤミンの支派の北方の半分はイスラエル国の一部となり、そしてダンの支派の領域は、南方の半分はレハべアム王に忠誠を守つていた。
 イスラエル国はユダヤ国に比し領域に於て三倍、人口に於て二倍であった。しかし南方に境を接していた強大なる二国、即ちフィニキャ及びアッシリヤとの抗争は、イスラエル国に其の優勢を十分利用する便宜を与えなかったのである。】〔傍註〕(17p)

     


(続き)


 約櫃(やくひつ)は、モーゼがシナイ山で神から授かったユダヤの神器とも云ふべき十戒を刻みつけた石版を納めたる箱であって、ユダヤ人の会堂で最も尊崇せられていた。そしてソロモン王によつてこの約櫃を安置せる殿堂が建設された首都が、レハベアム王の手中に握られているといふ事情は、王位簒奪者(さんだつしゃ)なるヤラベアムの行動を大いに抑制した。

 實際モーゼの律法は献祭を行う場所を只だ約櫃の守られた聖堂に限り、他の場所に於て行はれた献祭はすべて無効であると規定した。それでユダヤ人は毎年各地から献祭を行うためにエルサレムに集ったのであった。
イスラエル国のユダヤ人はエルサレムに上る時、正統の國王に属し、王権の最も盛んに行はれていた領地に入って、豫言者なるダビデ王の後裔と密接につながっていた祭司をたすけて聖儀を執行するレビと交渉した。
ヤラべアム王の臣民にとつては、 此の機会が分裂を棄てて、ユダヤ国に復歸するための一大誘惑となったのである。

 そこで、ヤラべアム王は、此の危険を防ぐ最善の方法がモーゼの宗教をイスラエル国内に撲滅して、その代りにソロモン王がすでに隠然信奉して異教の諸神の崇拝を普及させるにあると考へた。この事はバイブルの次の言葉からも明らかに見える。

【『ここにヤラベアム其心にいひけるは、國は今ダビデの家に帰らん、若しこの民エルサレムにあるエホバの家 神の聖殿)に礼物を捧げんとて上らば、此の民の心ユダの王なる其の王レハべアムに帰りて、我を殺し、ユダの王レヘベアムに帰らん』と。

『ここに於て計議(はかり)て二つの金の櫃(ひつ)を造り、人々に言ひけるは、汝等のエルサレムに
上ること既に足れり、イスラエルよ、汝をエジプトの地より誘き上りし汝の神を見よと、而して彼一つをべテルにすえ、一つをダンに置けり。此のこと罪となり、そは民ダンにまで往きて、その一つの前に詣でたればなり。彼また崇邱(たかきところ)の家を建て、 レビの子孫に非らざる凡民を祭司となせり』(列王紀略上12章26—31節)  】(19p)



(続き)


 こうしてヤラべアム王は、純正なる宗教を信奉するユダヤ人の迫害者且つ背信者なる多くのイスラエル国王の嚆矢(こうし/きっかけ)となった。そして此の諸王中尤も有名なる者はアハブである。

彼等臣民中、多くの人々は彼等の住く所に従ふことを辞し、また曩(さき)に異教に轉向したユダヤ人の例に做ふことを拒絶したが、如何ともすることが出来なかった。レビの人々が続々ユダヤ国に脱出して留まる者がなかったので、預言者が民間から現れて真の神の言葉を聴くべく宣伝した。しかしそれも効果がなかった。

 イスラエル国は神職の拘束を離脱して、獨裁政治を行ふに便利な政策を取った。ただ王位篡奪者エヒウの治世のみ豫言者エリシャによって、暫時ながらユダヤ人の間に純正なる宗教の復興を見るに過ぎなかった。エヒワ王の死後、その子孫は直ちに以前の諸王の政策を再興して、真の神の奉仕者等を死刑に処した。斯くしてイスラエル支派分製後二世紀を經た紀元前721年イスラエル民の半数は自發的に、他の半数は強制的に純正なる信仰を棄てた。

 そしてモーゼの律法は、イスラエル国内に於てただ少数の恩実なユダヤ人によつて、密かに信奉せられていたのみであった。

 この年、イスラエル國王オシヤに租税を課したが、アッシリヤ王サルマナサルは、オシヤ王が納税を免かれようとしていることを察知して、エジプトと交渉を開始した。アッシリヤの軍隊はイスラエル国を猛撃してオシャ王を虜にし、其の都サマリヤを包囲攻撃して、 三年の後これを完全に陷落した。イスラエルの十支派は、アッシリヤ軍に攻略されて、諸國民と同様の運命に逢着した。生き残ったすべての住民は皆集められて遠くエフラテ河の彼方に移住せしめられた。

 こうしてユダヤ人は、他國民と共に雑居せしめられた。(20p)




(続き)


 祖先の傳説に依拠した宗教。それを中心として彼等が追放や分散に抵抗し、一致團結すべかりし宗教の支持を得ることは、最早不可能となった。況して彼等は其の征服者に同一の諸神を崇拝するやうになっていたから、彼等は忽ち(たちまち)其の雑居していた諸國民に同化して、 永久に其の國民的存在を喪失した。

【人里を離れた所に隠れて追放を免かれ得た人々は、大風一過と同時に再び元の居住地に立歸った。アッシリヤ王の命令によつて、アッシリヤに移住していたユダヤ人が、エフラト河の彼方から再び故郷に帰ってきた時、彼等は自分の土地をこの同胞に分け与えた。
ここにも人種の混淆(こんこう)が偶像の伝播を助成した。それにも拘らず、少數のイスラエル民は祭司もなく、規定の儀式もなく、ただ祖先の神に封する祟拜を続けていた。幾冊か保存されていたモーゼの五書に僅かに彼等の宗教的伝説との連繫を維持する楔(くさび)となっていた。

 しかしイスラエル国のユダヤ国に封する敵愾心は、エルサレムに於て信奉されていた宗教に彼等の復帰する障碍となった。そこで彼等はサマリヤの町の側にそびえていたゴリジム山の頂上で真の神に献祭をなすに決した。此の山は、かってヨシュアがイスラエル民を率ひてカナンの地に入る際、全民を祝福して各支派に聖地の分配を行った古蹟である。

 イスラエルの支派の分裂は、エルサレムがハルデヤ人の占領する所となつて以來一層深刻になった。紀元前536年に、ユダヤ国の住民がバビロンの幽囚となるを免かれてその故郷に帰還した時、サマリヤ人は「約束の地」または聖地とユダヤ人の呼んでいたカナンとパレスチナに住んでいた多くの異教徒をユダヤ教に轉向せしめた。

 彼等はユダヤ人がエルサレムの聖殿を再建せんとする企てを嫉視(しっし/ねたみ)の眼をもって見ていた。そして百方これを妨碍しようと努めた。この事は多年彼等とユダヤ人との間に醸成されつつあった宿世の怨恨をいよいよ激化するのみとなった。(22p)




(続き)

 紀元前331年。アレキサンドル大帝のパレスチナ攻略の時、エルサレムの祭司長の兄弟マナシャがサマリヤ人の婦人と結婚していたため追放處分を受けた。マナシヤは自分の味方となつた多数のレビを共にしてサマリヤに去った。そしてアレキサンドル大帝の許可によってゴリシム山上に聖殿を建設し、サマリヤ人のために祭司の職を規定した。エルサレムから追放された總ての人々は其所に安全なる樂土を見出した。

 これがためにユダヤ人はサマリヤ人を極度に憎んだ。そして如何に重要なる場合に於ても彼等と一切交際することを厳禁した。

 キリストに向けられた非難の一は、彼がサマリヤ人を近づけたと云ふことにあった。サマリヤ人は今日まで其の生存をつづけている。そしてパレスチナにもまたエジプト及びトルコの或る町にも彼等は居住している。彼等のユダヤ人に封し、又彼等のユダヤ人に対する憎悪は、キリストの出現前と今日と少しも變りはない。(23p)

 バイブルの諸書中、彼等はたゞモーゼの五書のみを認めてゐる。但しこれに彼等は尚、ヨシュアの書と称せられる年代記を附加している。此の書中には、旧約歷史を最も空想的な形式に於て叙説し、又ゴリジム山上の聖殿をエルサレムの聖殿に比較して前者の優越性と年代の古き事を立證するに努めている。此のヨシュアの書はこの豫言者の存命中に著されたものとされているが、著しい時代錯誤を含んでいる。それによるとこの書は五世紀に書かれたものといつて差支へない。〔傍註〕

 ユダヤ国に於ては、エホバ--ユダヤ教--宗教は比較的容易に保持せられていた。何となればレハベアム王は、其の祖父なるダビデ王の宗教的魅力とレビ等の支持によつて其の王位に堅立していたからである。しかし王權対モーゼの律法の闘争を惹起すべき原因はエルサレムにもあった。ユダヤ国の王等は、自分の権力を祭司等に分つことを煩わしく感じていた。

(続き)


 彼等はイスラエル国の王等の獨裁権をもつていることを妬んでいた。そして終にはモーゼの律法の勢力を弱めるためイスラエル王等の例に做って、偶像崇拜を国内に伝播せしめた。此の變革は宗教上の目的と云ふよりは、寧ろ政治上の目的から行はれたのである。
アタリヤとヨアシ王の著名なる實例はこの事を證して余りある。ヨアシ王はレビ等によつてアタリヤの残虐から救はれ、彼等の助力によつて王位に就いたのである。

 王位に即いた彼は、程なくレビ等の拘束を離脱せんとする希望に燃えた。かれはレビ等と軋轢を起し、アタリヤの政策に立戻つて祭司長を聖殿の入口に於てユダヤ人の死刑の一種である石撃することを命じた。

 ヨアシ王の後繼者の歴史の大半も殆んどこれと大同小異であつた。しかしユダヤ王等の敵對的態度にもかかわらず、真の神の崇拝はユダヤ国に於いては連綿として絶えることなく、大多数のユダヤ人は皆その祖先の宗教を信奉していた。

【イスラエル人と云ふ名称は、神と格闘する者即ちイスラエルの意で、ヤコブの子孫の全部を指したものである。またユダヤ人という名称は特にユダヤの支流に属するイスラエル人で、これを広義に解釈すると、ユダヤ国に属するイスラエル人を指示したものである。イスラエル十支派がアッシリア人と混血した結果、純血なるイスラエル人はユダヤ人以外に無くなったのである。ユダヤ人と称されるサマリヤ人の如きは新たにユダヤ教に轉向した外国人で、殆んどユダヤ人の血統を受けていないからである。】〔傍註〕

 紀元前606年にエルサレムはバビロン王ネプカドネザルの手中に歸した。そしてヤキム王と其の人民の一部は、捕虜としてバビロンに送られた。残された人民のためにネブカドネザルは自ら王を選んでこれを治めさせた。

 此の王等は其の羈絆(きはん/きずな)を脱しようと努力したが、ネプカトネザルは十六年を経て再び攻めて来て、エルサレムを徹底的に破壊したため袋に寛大にして殘留を許した者の内、エジプトにも脱しなかったもの全部を、捕虜としてバビロンに連れ歸った。これが即ちユダヤ人の宗教的運命に徹底的影響を及ぼしたバビロン大幽囚の初めであった。

 ネプカドネザルは、別名をナウホドノッソルと云つて、ハルデャ王のナボポロッサルの子である。そして彼の首都をバビロンと云ったのである。ハルデャ人は多年アッシリヤ人の権下に服していたが、ナボポロッサルの治世に至って其の羈絆(きはん/束縛)を脱しし、以前の統治者をその権下に服せしめた。

 ハルデャ国のアッシリヤ国に封する勝利は、教化あるも、しかし純軍國的なるアッシリヤ獨裁王国に對する典雅的なる古い時代の文明の勝利であった。(27p)

第二章  バビロン幽囚とパリサイ派



 ユダヤ国民の歴史によると、彼等がその信仰する宗教に背叛すると、其の都度、必ず訪づれるものは他国から受ける侵略であった。そして此の敗戦によって国民に与えられる屈辱と戦勝国への奴隷化は彼等にとて忍び難き苛酷なものであった。これによって毅然として覺醒し、再び真の神への奉仕に復歸することになったのである。(28p)

 こんど(紀元前586年)の敗戦は、さきにモアブ人、アンモ二人、シリヤ人等が、聖地の高所に陣営を設けて、諸所を占領した時に比較すると遙かに大なる國難であった。今や ユダヤ人は哀別離苦の涙をのんで祖国と別かれねばならなかった。征服者に引率されて遠き異境に移住することを餘儀なくされたのである。俘虜として轉送されるユダヤ人に加へられる殘虐は、實に言語に絶したものであったとバイブルに記述されてある。

 元来ユダヤ國に於てモーゼの宗教が保持されていたから、バビロン幽囚の時代に於てもユダヤ民は此の宗教によって自分等の精神力の源泉を汲むことが出来たが、アッシリヤの平野に移住せしめられたイスラエル民は、疾く(とく/とっくに)から既に偶像崇拜に傾いていたのでかかる精神的源泉を缺いていた。

 此の分離した同胞なるイスラエル民が、自分の人種的特有性を喪失したのに反し、ユダヤ民はかれ等の間に現はれた豫言者等を中心として一層密接に、強固に一致團結したのである。此の時代の苦難こそ、ユダヤ国民の信仰をいよいよ錬成して彼等を祖先の宗教に復歸せしめたのである。

 一般民衆の間に於ける此の純正信教の復興と並行して、バビロン俘囚は遺憾ながら、他の比較的幸福たらざる結果を生んだ。
特にユダヤ民中の尤も教育ある人々は、其の宗教的観念と、征服者等の信仰との接近のために種々の誘惑を受けた。(29p)

(続き)

 一体バビロン人は、アッシリヤ人の如く、専ら好戦的な、他國民を奴隷化せしめることを主眼とするやうな國民ではなかった。かれ等の性格はあまり温和ではなかったが、しかし其の宿命的競爭者たるアッシリヤ人ほどに殘忍ではなかった。かれ等が、古代の風習に從って、征服せられた国民の殘餘を自国の領土に移住せしめた時でも、かれ等はアッシリヤ人の如くこれを奴隷にしなかった。ただ自國民の間にいわば定着せしめたのである。

 例へば兵卒ならば征服前と同様に武器を持たしめ、農夫や職工ならば征服者の農工階級に加わらしめ、祭司ならば賢人、占星術者、豫言者等の仲間とならしめた。

 バビロニャには昔から哲學や史學を始めとし、天文學や神靈交通術に至るまで、當時に於て研究し得たあらゆる知識が極度の發達を遂げていた。これ等當代に於ける學問の栄光を遠く世界の各地に普及せしめていた學者等の間に、ユダヤの祭司レビ等は交ったのである。

 これが即ちバビロンに移されたユダヤ人等の運命であった。かうしてネプカドネザル王は第一回のエルサレム陷落の時以来、ユダヤ國の貴族の家庭から集めた小姓を其の側近に侍らせたのである。後世の預言者ダニエルの如きはハルデヤの神官長となった。(30p)

オッペルト著『ハルデヤ及アァシリヤ帝国史』レノルマン著『最始の文明』マスペ著『近東諸國民の古代史』〔傍註〕

 移住せしめられたユダヤ人が、ハルデヤ人に接近して雑居していたにも拘はらす、特有なるユダヤ人の国民性は以上既に述べた如く、全く同化減却せられなかった。却つてかかる雑居は、征服者に対する被征服者の反感嫉視を煽って、如何にしても緩和することは出来なかった。殊にユダヤ人は従來甚だしく前者を憎んでいたからである。魅力と詩情に満ちたる美妙なる詩編第一三七篇は、

『われ等バビロンの河のほとりに佇みて、シオンを想出でて涙ながしぬ』
『バビロンの女よ、汝等の嬰見をとりて岩の上に投げ打つものは幸福なるべし』 との言葉をもって結んでいる。(31p)

(続き)

 しかし、此の雑居によつて、バピロ二ヤの神官とユダヤのレビとは、同一の生活をなし、また同一の工作をなす義務を負っていた。それで、自然かれ等の間に親交が結ばれるようになった。此の時まで全然沒交渉であった二つの精神界がここに接触を除儀なくされたのである。
 ところが、ハルデャの学者間に、主として受けられていた哲学は、大衆の理解と其の宗教的要求の滿足に適応せられる迷信的通俗化を除くの外は、純然たる汎神論であった。宇宙と云ふ廣大無邊なる殿堂中からハルデャの學者は、創造した造物主を排除した。

 それが爲めに原因と結果と混合した世界は自然に生じたものとせられ、それ自体神と認められた。神の観念それ自体はあらゆる存在を統治する宇宙の調和と、また、此の調和によって統治せられたる宇宙の各部分と混合するものとされた。故に神は交々且つ同時に其の乳房をもって人々を養ひ、其の露をもってこれを潤ほすところの地ともなり、これを照らして且つ温める太陽ともなり、植物の生殖作用を行ふ花粉を配送する風ともなった。

 神は人類と禽獣世界を繁殖せしめ、植物を生ぜしめ、發育せしめ、枯死せしめ、復活せしめると共に、生氣なき物体の中にさへも現はれる生命の源であるとされた。おのづから発生する永久なる自然の氣息の如きものと同一視せられた神は、世界から生じたもので、世界が神から生じたものではない。

 マッソン結社(フリーメイソン)の錬金術上の勞作を知っている者は、此の結社の首脳者等が最も愛好している思想を直ちに了解するであらう。この思想は最初ユダヤ密教徒が創設したものであったが、中世紀の錬金術者がこれを繼承し、上記結社の首脳者等が更にこれを採用しているのである。ハルデャ人の汎神論の基礎となり、且つ古代及び現代の神秘學の根柢をなしたる神化人の宗教についても同様に言うことが出来る。 (33p)

(続き)


 奇異には感じられるが、しかし争はれない詩的情調に貫徹されている此の學説は、あらゆる時代を通じて人心を魅了し得る一種の美妙さをもっていた。それは其の直接の結果が、神化せられた人を崇拝することに於ける人間の誇の極致となるが故に、一層強く人間を魅惑したのである。

 實際若し自然界と異なり且つ自然界の創造者なる至上の存在がなかったとしたら、又若し一つひとつの物が或る程度の智慧と魂とを具有しているものとしたら、そして若し神が只だ世界中のこれ等總ての有意義、無意義の魂の綜合であるとしたら、必ずこれ等すべての魂の間に成る階級が存在せねばならぬであらう。そして此の各々の魂は神の一部で、其の神を体現する程度は不平等であるに違いなかろう。

 神の本質が、石に於て体現する程度は、生活し、呼吸し、生長し、枯死する木に於けるよりも少ないであらう。木に於て体現する程度は、思考し、判断し、行動する動物に於けるよりも少ないであらう。

 動物に於て体現する程度は、過去と未来とを思索し、自然界の目的を考究し、自分の工作と發明力とを以って自然界の不完備を修正し、且つ自ら無限に完全の域に向って修養する人間に於けるよりも少ないであらう。

 これ等あらゆる存在の此の階段の最上段に、他のすべての存在よりも比較されぬほど完全なる、且つ叡智なる、そして全世界を成し立つる神の本体の最大部分を明らかに自らの中に受け容れている人間が位しているのである。

 自分以上のすべての存在を天界から排除した人間は、實際この世界の神となって、萬物は皆その下にあり、それは服従するものと考へられるのである。(34p)

 斯く思考した時より初めて、文明の堅く立っていたすべての道義的基礎は、その根底から覆されたのである。自然界の唯一の眞の神なる人間は、最早空虚にして何等の反應もなき天に向って膝を屈する必要はない。

 寧ろその反対に自分の性向を本能に問うて、自身の内に神を求むべきである。人間の本体にある自由意志が即ち神の意志となったので、これに反抗し、これを拘束し、これを律することは不法であるとされた。真正の宗教は、人間のすべての慾念を崇拝し、これに滿足を与えることにあると云ふのである。

 ハルデヤの賢人等は、この學說の唯一の遵奉者ではなかったようである。これが古代のすべての神秘學の基礎を成し立てていた。此の神譜の分解と綜合とを行ふ時、われ等は、大衆の崇拝せしめられていた諸神が、人間の種々の慾念を偉大に或は頽廃的に人格化したものであり、又主としてこれ等諸國民の宗教の基礎となっていたものが、萬物の母なる自然の崇拝であったことが容易に納得されるのである。

 この崇拜は、後世キリスト教反對の諸教説の大半、例へば初世紀のマネス教やミトラチズムを始めとし、中世紀のユダヤ密教や錬金術、十八世紀のマルティニスト宗及び現代の神智学に至るまで、何れも其の根底にこれを唱道していたのである。結局この教説と同一の結論に到着する通常の唯物主義は、單純なる思想を有ずる人々のためにこれを改作したものに過ぎぬのである。(36p)

(続き)

 ハルデヤの學者等が、十八世紀のクロードゥッデ・セン・マルテンと同様に、確定的に且つ明瞭に、既に三千年以前其の原則を説破したところの此の人間の誇りの宗教は、レビ等に於て全然その出生を異にしてはいるが、しかし不思議にも其の気を一にしているレビ等の教説、即ち人種的倨傲(きょごう/傲慢で威張った態度)の崇拝の教説と接觸したのである。ここに我等はイスラエル民の使命を眞正なる信教の「約束」の不可解なる抂曲(ごうきょく/道理を捻じ曲げる)が、正統的ユダヤ教を信奉するユダヤ人の間にまで浸潤したることに言及せざるを得ない。

 ユダヤ人の間に現はれた豫言者等は、かれ等に向って神がかれ等を選民となすがために選抜した事、神がかれ等に特別の愛をもつて導き且つ保護していた事、又他の諸國民は未だ嘗(かつて)神の斯る(かかる)不斷の焦慮の目標となったことのないことを絶えず力説したのであった。
此の敎旨は、必ずしも常にユダヤ人に其の神の叛逆に向ふ傾向から阻止し得なかったが、兎に角かれ等をして其の人種上の優越性を確信せしめたのである。

 神がかれ等に対して特別の考慮を有していたと云ふことの確信によって彼等の中の多くの者は、此の神の選抜がかれ等の人種の功績に対する公正なる褒賞であると信じていた。
かれ等はイスラエル民に対する神の「約束」を以って、かれ等の忠誠の代償として彼等が他の諸国民の上に物質的に有する主権を確定する爲めに二つの力――神とイスラエル――の間に締結された約束と看做(みこす/実際とは違う見方)していた。悪憎を交へたる軽侮――これがユダヤ人が他国民を見た瞬間共の心に起す唯一の感情であった。(37p)

(続き)


 然らばユダヤ自身は何うであるかといへば、かれ等は其心に自分を「神の選んだ民」以上に高く考へて、自ら「神なる国民」と称していた。

 以上が即ち俘囚によつて始めてハルデャと其の賢人等とを見た時、ユダヤ国の住民が呈していた思想狀態である。アッシリヤ、イラン、ミデヤ及びペルシャが専ら軍人の居住する所となっていた時、又フィニキヤ人の才能全部が商業に集中していた時、ユダヤ人とハルデヤ人はアジアに於ける最も文化の發達した二つの国民であった。

 多くの点に於て互いに類似する所の少なかった此の二国民は、その教育ある社会の人々の開發に互に接近していた。ハルデヤ人を喜ばせていた人間の誇の崇拝、ユダヤ人を鼓舞しつ、あつた人種の誇への奉仕――これが此の二つしてゐた思想狀態である。

 アッシリヤ、イラン、ミデヤ及びペルシャが専ら軍人の居住する所となつてゐた時、又フィニキヤ人の才能全部が商業に集中していた時、ユダヤ人とハルデヤ人はアジアに於ける最も文化の發達した二つの国民であった。多くの点に於て正に類似する所の少なかった此の2国民は、その教育ある社会の人々の開發に互に接近していた。

 ハルデヤ人を喜ばせていた人間の誇の崇拝、ユダヤ人を鼓舞(こぶ)しつつあった人種の誇への奉仕――これが此の二つの国民をして互にあい理解せしめ、且つ互に相影響せしめた所以であった。

 最初、ハルデヤの哲學、後にペルシャの哲學が、何れもレビ等から借用されたものであるといふことに就ての説明は、本書の主題に入つていない。だが只だ次の消息を玆(げん/ここ)に附言するに止めて置かう。

 傳説によれば、ユダヤの豫言者ダニエル或はエズラは、ゾロアストルの教師であった。此のアジアの哲學者の教説中に見る或る高遠なる論旨は疑なくユダヤ教の一神論に其の淵源を汲んだもので、此の教師との關係に於て其の理論の出發点を見出さねばならぬ。(38p)

 その反對に、ハルデヤの思想は、正統的ユダヤ教に力強く影響して、イスラエルを変形せしめ、「神と格闘する者」との其の本来の原語の意味をその名に立ち戻らしむべき分派の起る基礎となった。この分派が印ち『パリサイ派』であった。【パリサイ派とはヘブライ語で特別の者】と云ふ意味である。此の名称自体が既に異端及び分派を思はしめるものである。

   この意義は、多分パリサイ派自ら自分の分派の名称に附したものであったろう。しかしイスラエル民に封しては、彼等は此の名称に別の説明を加へていた。即ち彼等は他のユダヤ人から「特に別けられた」者である。其の敬神の念厚きために特別な地位に立てられたものであるといっていた。

 ハルデャの哲學が、パリサイ派の哲學を生んだのと同時に、此の哲學は又その教義をピタゴラスに伝えた。ビタゴラスはユダヤ人のバビロン大俘囚の初め頃、バビロンで十二年間修學していたといふことをヤンブリクが證明している。〔傍註〕 (39p)

(続き)


   バイブルの諸書にも、ユダヤの歴史家の書中にも、俘囚以前にはパリサイ派のことは記されていない。しかしミュンクの著書が世に公にされた後は、バビロンの俘囚の時に、ハルデアの哲学が或るユダヤの學者、就中その大部分なるレビ等に影響を与えた結果として此の分派が起ったと云ふことがもはや何人も爭ふことのできない定説となった。

 勿論このことに関するミュンクの結論は、十分根拠あるものではあるが、しかしわれ等の見る所を以ってすれば、このユダヤの學者等が、そのハルデヤ教師等の學設から受け容れたる知識の重要さを十分に評価していない。

 彼等は實際当に萬物の本体とその再生及び其の初源の性質に関する迷信の一部のみならず、汎神論的教説の根源をも受け容れたのである。尤もかれ等は此のすべての知識を皆ユダヤ的様式に改造し、これを「選民」の誇りと調和せしむるに努力した。(40p)

 此のハルデヤ思想のユダヤ思想への寄興からパリサイ派の伝説である「カバラ」即ち神密教が起ったのである。
 これが久しき間、教師から門弟へと口述によって伝えられ、爾米(じらい/それ以来)
八百年を経てタルムードの著述に靈感を与え、ついにその完全なる表現を「ゼフェル・ハ・ゾガル」に見出したのである。

 「ゼフェル・ハ・ゾガル」とは「豪華の書」と云ふ意味である。此の神秘教的著書は、ユダヤ人の間に最も重きをなしている。そして遺憾ながらキリスト教から轉向して 神秘教徒も同じくこれを重要視している。この書の假想的著者は、西暦紀元五〇年にガリラヤで生れた祭司シメオン・ペンウオハイであったとされている。

 しかし斯くの如き祭司がこの時代に實際存在しなかった。そして「ゾガル」と称せられる書は十世紀の頃に書かれたものであると断定するに十分の根拠がある。 著者としてして種々の人名を擧げることや、様々な著書の贋造は、ユダヤ秘密教の著書に関する問題に於ては普通の現象である。〔傍註〕(41p)

(続き)


   パリサイ派の傳説は、ユダヤ人の待望の表現として傲然(ごうぜん/思い上がって人を見下す)唱道せられるよりも、先づ第一に重大なる難闘を突破せねばならなかった。此の難闘の主なるものは、俘囚によつてユダヤ民の間に惹起された正統的信仰の復興によって生じた。エルサレム聖殿の破壊をかこち、

 エホバの神に自分等の祖國の艱難を止めんことを念願しつつあった追放の民に向って、エホバの神は空虚な夢想に過ぎざるものであるなどと宣伝することは、何等の效果をも望まれぬばかりでなく、好んで大なる危険に身を曝らすこととなり、尠(すくな)くともイスラエル民が永久に自分等の勢力を失墜することになるのであった。

   そこでパリサイ派の人々は、同胞の信用を得るためには、宗教運動の先頭に立ち、律法の微細なる規定をも偽善的に遂行し、煩瑣(はんさ/わずらわしい)複雑なる儀式を制定することを以つて賢明なる態度であると考へた。

 それと同時に、かれ等は秘密集會を催おし、秘密結社を組織して自分等の説教を展開した。此の結社員は俘囚当時は僅か数名に過ぎなかったが、ユダヤの歴史家であるヨセフ・フラウィーの時代には此の結社が最も隆盛を極めて六千名に達した。(42p)

    この汎神論者なる學者等の集会は、忽ちにしてユダヤ民の上に指導的勢力を有するものとなった。紀元前538年にペルシャ人がバビロンを占領した時、ユダヤ人は俘囚から解放されたる一大期待をかけたところ、其の後二年を経た五三六年に至り、ペルシャのクロス王は勅令を以って、故郷へ歸ることを希望するユダヤ人にこれを許した。

 この時この俘囚は、終りを告げたのである。そして第一回の五千人からなるユダヤ人はゼルバべル引率の下に出發し、続いてエズラ及びネエミャに率ひられて多くのユダヤ人が歸つて行った。

 ユダヤ國の住民全部が俘虜となつて移住せしめられ、そして後に再びその悉(ことごと)くが帰還したものやうに想像されているが、それは何れも誤りである。ネブカドネザル王は、ただ一部の住民をバビロンに連れ去ったが、他の住民はエジプトへ逃げて、此所で特別の団体を組織していたのである。
 
 またクロス王がユダヤ人に故郷へ歸ることの許可を与えた時、「神にその心を感動せられし者等」のみ歸還したので、大部分はハルデヤに依然として留まった。しかし殘留した者等も決してユダヤ先天の国民性を失はなかったために、ペルシャの宰のみ相モルデカイをも出したのである。

 「エステル書三章八節」にある如く「国の各州にある諸民の中に散らされて別れ別れになり居る」ユダヤ人である。だからソロモン王の時代に始まったユダヤの散居は、紀元前500年の頃にも、既に多数に上っていたのである。〔傍註〕(44p)

(続き)


    しかし、かれ等がその神秘學の中から公表し得るものと認めていた総てのことは、国民的感情を直接に害し得るものは何も外面に現さなかった。パリサイ派の人々は、如何に深くハルディ汎神論に感染しても、兎に角自分の人種的矜持を固く守っていた。

 バビロンに於て彼等の心に浸透した此の神化人的宗教は、かれ等の見る所によると、特選された最高至上の存在たるユダヤ人の利益に務むべきものであった。正統的信仰を有するユダヤ人がモーゼの律法から汲んだ所の全世界の上に王権を獲得することの「約束」を、パリサイ派の人々は、モーゼの神が萬國民の上に王となると云ふ意味でなく、物質的にユダヤ人が全世界の覇権を握ると云ふ意味に解釋していた。

 待望せらるるメッシア(ヘブライ語の救世主)は、かれ等の信念から云ふと、太祖の罪惡を購ふ(あがなう/代償を払う)者でもなく、全世界を其の精神的指導権に服従せしむべき、純然たる精神的勝利でもない。それは連勝的戰爭の血を浴びている一時的王者、イスラエル民を世界の覇王とし、自分の戦車の車輪の下に萬國民を蹂躙せんとする偉大なる王者であらねばならなかった。

 ヨナタンのハルデャ語で書いたイザヤ書「諸国民はメッシャ王に撃滅せられた・・・・・・ユダの家より現るべき彼、メッシャ王は如何に美しき。かれは諸敵と戦を交へて諸王を殺した。」と記してある。

 斯くのごとく諸国民の上に主権を執ることを、パリサイ派は、存在せざるエホバから期待していなかった。かれ等は只だ國民の感情に譲歩するがためにのみ、表面的にエホバの神を崇拝することを続けていた。

 彼等は此の期待をイスラエル民の恒久的忍耐力にかけていた。人間的方法の適用にかけていた。彼等の此の主義が如何に驚くべきほど古きモーゼの律法と隔絶していても、併し(しかし)これを極めて巧みに滴一滴とユダヤ人の間に注入していた。彼等をして民間に其の人望を失はしめる何物も其の間になかった。(45p)

   他のすべてのことはパリサイ派の巧妙なる秘密結社が自ら担当した。そして程なく自分等の全能をユダヤ国に強化した。西暦紀元前に於けるユダヤ社会に封する感化的行動を説明するには、現代の社会に於けるマッソン結社(フリーメイソン)の活動と比較するに若くはない。

 パリサイ派は会員の数こそ少いが、しかし緊密に團結し、會員をして最も厳重に結社の秘密を守らしめて、不撓不屈の努力を以って二つの目的を達成するに邁進していた。第一は高級宗教職(その勢力は復興されたユダヤ國民の間に絶大であつた)を獲得することによって政権を手中に収め、「最高宗教評議會」を牛耳ることであった。第二は国民の信念を徐々とかれ等の秘密教に導くにあった。そして彼等は此の二つの目的を完全に達成した。 (46p)

(続き)


 國民のエルサレムに歸還した後若干の期間、政権はペルシャ王の任命したユダヤの統治者によって行使せられていた。就中著名なる統治者はエグラ及びネエミヤであった。

 しかし後世政権はシネドリオン(サンヘドリン)に移った。これは一種の最高評議會で、同時に教育、司法、一般行政に闘する権能を掌握していた。何となれば此の命は律法を解釋し、重要なる場合に於て裁判をも行ひ、租税を徴収し、國民を代表する等の職務を執行するからである。

 此の最高評議會は七十一名からの議員から成立し、欠席者があった時は、自ら其の補充を行った。議長は普通エルサレム聖殿の祭司長で、國王の敬禮(けいれい)を受けて居た。

 七十名の議員は三班に分れて献祭を行っていた祭司等、律法の解釋家なる學士、貴族の家長なる長老であった。西暦紀元前130年シモンマッカウェイの子、ヨハネ・ギルカンの時代から始めて、大祭司及びシネドリオン(サンヘドリン)の名に於てユダヤ国の貨幣を鑄造する風習が制定せられた。

 エルサレムが西暦135年ローマ皇帝アドリアヌスによつて徹底的に破壊せられユダヤ人が全く世界の各地に分散するに至る悲運に對して此のシネドリオン(サンヘドリン)が如何に善処したかは以下叙述するであらう。〔傍註〕 (47p)

    實際ヨセフ・フラウィーは其の書中に、パリサイ派はその緊密なる團結によって争うぶべからさる権力を有し、かれ等の秘密教を知らない総てのユダヤ人を無教育者として取扱ひ、これを知っている者を他のすべての人類以上に高級なる存在と看做していた。

 彼等は司法機関を左右し、シネドリオンを牛耳っていた。これによって当時の上流社会となっていた裁判官や祭司等でさえも、その勢力を維持するためには、彼等に阿附(あふ/へつらい媚びる)せねばならなかった。 

 サドカイ派はヨセフ・フラウィーの云ふところによると、全然パリサイ派の教義に反對していたが、何等かの職務についている以上はパリサイ派の行動の線に添はねばならなかった。何となれば、若しその教義に反抗したら、國民は容赦なくかれ等を排斥するからだ。

 サドカイ派の名称は、ユダヤ哲學者サツドクから出たものである。かれ等はパリサイ派に対照せらるべきような組織を有する宗派を成し立てていなかった。かれ等が始めて知られるやうになったのは、西歴紀元前三世紀の頃であった。かれ等は時としてギリシャ党と混同せられる。

 ギリシャ党といふ名称は、ギリシャとシリヤとを併合したセレフク王朝の主権の下にあった影響によって、ギリシャ人の風俗、言語及びギリシャ哲學の或る主旨までも受け容れたユダヤ人に附せられたのである。

 サドカイ派は、地上に行はれるところの善にも悪にも無關心な唯一の神を信じ、靈魂の不滅を否定し、善行が霊魂のために利益なのは、健康が身体のために利益なのと同一であるとなし、善行を保持する必要は、これによつて得られる個人の満足のためであると説いていた。

 サドカイ派は多くは貴族の集団を成していたが、自分の理想として同胞の間に勝利を獲得せしむる目的を以つて団結するやうなことは決してなかった。

 ヨセフ・フラウィーは
【パリサイ派が互に合同して生活しているに反して、サドカイ派は互に相関せざる風がある。かれ等は恰も(あたかも)異人種の者と共にしていると同様に互に疎隔(そかく/嫌って遠ざけること)して生活している】と云っている。〔傍註〕(49p)

(続き)


    他方面に於ては、パリサィ派は重要なる信仰問題に関する多くのユダヤ人の見解を何の苦もなく変革せしめていた。それは高級な宗教の職にある者の大半を占有していたこととシネドリオンに於ける大多數の發言権を有していたことによってであった。

 故に彼等は権力をもって律法の解釋を左右する便宜を有し、尚を書に錄された。律法の意義をも抂(まげ/歪める)げてこれに任意の解釋を加へた。此の目的を達成するために彼等はユダヤ秘密教の基礎となっていた比喩的解釋法を利用した。

 この解釋法は、後世あらゆる時代の異端創始者等のために、 其のバイブル本文との闘争に於ける絶好の模範となり、また今日の現代主義に主要なる武器となっている。此の解釋法によって、バイブルは一切直接の意義を喪失してしまった。

 そして其の代りに注入せられた意義は、もはや客観的真実を言ひ現すものでなく、秘密教に通ぜざる門外漢から隠されている事実と理論とをカムフラジュするための仮面と認められていた。(50p)

 バイブルの物語や誠命の外面的單純性は、彼等の見解によれば、バイブル諸書の著者等の聰明を明示するものである。如何となれば此の著者等は、學士等から秘密を明かされさる讀者等が、此の誠命や物語りを共の文字通りの意義にのみ解し得るやうに記述したからである。

 然るに、パリサイ派の秘密教に従へば、これ等誠命や物語りは、多くはバイブルの本文と何等の關係をも有たざる、或はそれと全然反對の意義を有する理論を口述で敷衍(ふえん/詳しく説明)するがために、かれ等が用ひた好餌(エサ)に過ぎなかったのである。 (51p)

 これ等の理論を自分の任意によつて自由に展開していたパリサイ派は、斯う(こう)してキリストの降生前數世紀の間、すでにユダヤ人をして自分の秘密教の大半の主旨を受け容れしめたのである。斯くして「隣者を愛し、他國人に敬意を以つて接することを命じた」 モーゼの律法に反して、パリサイ派はユダヤ人ならざる総ての者に封する本能的厭忌心を國民に吹き込むことに努力した。

 この非ユダヤ人に對する彼等の脈忌心は、少しでもこれに接觸することをもつて身心を穢すものとして、病的恐怖心に化したのであつた。斯くしてすべての非ユダヤ人を絶滅すべき俗世界の王なるメッシャの人間的天性についての彼等の思想は、ダビデが其の神からの出生を其の詩篇に讃美し、豫言者等が其の無辜(むこ/罪のない)なる榮光と極度の卑賤とを予報した超人的救世主に就いての思想を全然変革したものであった。

 終に、斯くして樂園と火の地獄についての正統信仰的思想は排斥されて、これに代ふるにパリサイ派の人々がハルデヤ人から借用した輪廻説を以ってした。(52p)

 ユダヤ古代史一八章の二に於て曰く、ヨセフ・フラウィーの記す所によると、輪廻説を信じていたパリサイ派は、民間に大なる勢力を得たので、神に對する信仰と神に献ぐる盛大なる礼拜式の問題に闘するすべてのことに於て、国民は彼等に盲従していた。と〔傍註〕

 救世主降誕の直前に於て此の進化作用は一般的となった。そして其の献祭の如きは祖先から継承したる信仰に全く離反したものであることを意識する者もなかった。

 しかしユダヤ図に於ける人心が、悉く(ことごとく)パリサイ派の巧妙なる戦術に服従されたのではなかった。ユダヤ人中の頗る(すこぶる)多數者、特に比較的教育ある者、或は神の叡智に導かれていた人々は、パリサイ派がイスラエルを異端に誘導していたものであることを悟って、これに反抗しようと努めていた。

 その競爭者等を支持していた政治的勢力からの妨害のために、これ等正統的信仰を固く守っていたユダヤ人は、正面から彼等と闘争することを避くる外なく、殆んど皆その祖国を棄つることを余儀なくされた。

(続き)


 死海の沿岸、荒凉たる荒野に彼等は修道院を建設した。ここで彼等はキリスト降臨の時に至るまで眞正の信仰の約束を守っていた。ここに約四千人のユダヤ人がモーゼの神に奉仕し、予言の応ずる時を待ちつつ、修道規則に従って住んでいた。

 此の規則の明細はヨフ・フラウィー及びブリニーによって我等に伝えられている。かれ等の高潔なる徳行生活は一般の尊敬の的となっていた。エッセイと称せられた一派の人々は、イスラエル人をして其の使命に背かしめようと努めていた人々のために少しも心を動されなかった。

 かれ等はモーゼの律法のすべての規定を履行していたが、しかし献祭のためエルサレムに參拜することは差控へていた。それは彼等がエルサレムの聖殿に於ける献祭を是認しなかったためではなく聖殿は彼等が深く尊崇していたところであったが、しかし此の献祭が異端者なるバリサイ派の者によつて執行せられたので、そこで行くことを欲しなかったのである。(53p)

 エッセイ派は、エルサレムの聖殿に行はれた禮拜式を尊崇してはいたが、しかし自身は参列しなかった。何となれば彼等の信念によれば、献祭執行者の多くは退化したイスラエル人から成っていたからである。(ネアンデル著教會史)

 エッセイ派の教導職は、極めて門戶閉鎖的であったが、しかし其の影響するところは、 修道院の四壁内に限られなかった。エルサレム其他のユダヤ国の各都市に於ける俗人の間に、かれ等の教派に歸依していた者が数多かった。

 これは死海の沿岸に苦行を務めていた修道士等の誠実なる信徒であつて、共の精神的指導に従っていた。著大なる各中心地では、 これ等信徒中の一人に、眞の神を信ずるすべての人々を団結せしめる義務が負はされていた。この眞の神の教道は旧約聖書によって其の靈感的内容を与えられ、すでに遠き以前から新約聖書の根本義と完全に一致していたのである。(54p)

 ヨセフ・フラウィー「ユダヤ人の戦争』二の一の認める所によると、エッセイは総てのユダヤ人の宗派中最も完全なるものであった。かれは死海沿岸修道士――ユダヤ人の戦争――に就いて次の如うに記している。

 彼等は、互に緊密なる友愛の開係を保ちつ、生活している。そして總ての快楽を以って如何なる者も避くべき罪惡とし、節制及び情欲との奮闘を以って最も尊敬すべき善行、美徳と看做(みなし)ている。かれ等は結婚を排斥している。それは人類を絶滅すべきものと信じているためではなく、婦人の不節制を避けねばならぬからである。

 しかしながら彼等は學習のため又善行の規則に於ける修養のために委托せられる兒童を引受けることは拒絶しないのみならず、彼等の肉親者のように懇切に教育する。そして総ての兒童に一様の被服を与えている。

 彼等は富を蔑んでいる。かれ等の所有はすべて共同で、驚くべき程平等にしている。かれ等の団体に収容せられる各人は、富による虚築を避くるため、また他人を貧困の恥辱から救ふがために、そして兄弟として幸福なる一致団体の中に生活するがために一切の財産と別かれる。(55p)

(続き)


 彼等は、若し其の被服が十分に白ければ、それで自ら衣服に足れる者、清浄なる者と認めている。

 彼等は最も宗教心が強く、日の出前には信仰問題以外のことは一切口外しない。

 そして其の時は、神にその光を以って地を照さんことを願ふために、かれ等が代々繼承した祈臓を行ふ。その後各人はそれぞれ指定された業務に就く。十一時に彼等は一ヶ所に集会する、そして白衣を着て冷水を浴びる其の後各自の独房に別れて行く。

 房中には宗派以外の者の出入を禁じている。斯の如くして清められた後、かれ等は食堂に行く、それは恰(あたかも)も聖堂に往くが如く、そこに入った後は全然沈黙して坐す。各人の前に小さい皿の上にバンと食物が置いてある。先づ祭司が肉を祝福する、そして祭司の祈祷を終るまでは誰も食物に手を觸れない。食事の終った後は、只だ神の恩恵によってのみ、食物を得るものであることを皆感ずる。すると祭司がまた、そのための祈疇を朗読する。その後、彼等は、神聖なものとされている衣服を脱いで、それぞれの職場に帰って行く。晩の食事の時も、かれ等は同様に行っている。(56p)

    そして若し訪問客があればこれを歡待する。
 彼等の家では、誰も騒がしい音も聞かない。そこに少しの混雑もない。各人は只だ自分の順番を待って物を言ふ。そして彼等の寡言は外國人をして自然敬意を起さしめる。こんな節度は不斷の節制から生する結果である。 彼等が飲食するのは、只だ自ら養ふ必要のみに限られている。

 窮民を救済することの外は、何事によらず一切長者の許可なくしては獨斷行爲を許されない。それも同情以外の他の如何なる動機にも因らないことを條件とせねばなぬ。若しこの貧しい者が親類であるならば、許可なくしては何物をも与えることは仕出来ないのである。

 彼等は特に憤怒を抑へることを努めている。彼等は平和を好み、約束したことは必ず実行する。それで他の人々の誓約よりも、彼等の単なる言葉が寧ろ信用し得られる。彼等は宣誓を神に封する冒涜と見做している。

 何となれば若し信用を得るがために神を証者として呼ばねばならぬならば、既にその人が虚言者でないと他人を納得せしめることは出来ないからである。

 彼等は、其の仲間入りを希望する者でも、直ぐにはその団体に加盟させないで、先ず一年間修道院の牆外(垣根の外)に居住させ、そこでかれ等同様の生活狀態を体験せしめる。

 この人々は鋤(すき)と、襯衣(シャツ)と白衣を受ける。この人々は同様の食物を用ひ、身を清めるために冷水浴を行ふことを許される。しかし尙ほ二ヶ年を経過せねば、一般の食堂で食事することは許されない。

 その二ヶ年の間は、彼等の思想の強固さと堅忍不拔さの試験が行はれる。その後始めて彼等に適富な者と認められて全く収容される。(57p)

(続き)


 しかし、一般の食堂に入られるに先だって、神を敬ひ、心をつくしてこれに事へること、人的關係は公平を守る事、誰に封しても、又たとひ命ぜられでも意識的に悪事を行はざる事、有司特に王に封しては、神より権能を受けたるものとして誠忠を守ることに就いて誓はねばならぬ。

 これに尙ほ附加して、他は彼等が権力を獲得した時、民を虐ぐるがためにこれを濫用しない事、又共の其時、衣服その他必要とする総ての物も、かれ等は其の権下の民よりも多くの物を所有しないといふことを誓はねばならなかった。

 以上が即ち彼等の同一の生活狀態を取ることを望む者に課する契約である。それは、斯くして彼等を罪惡から防衛するためである。万一かれ等が重大な過失を行った時は、修道院から放遂されたことになっている。

 彼等は至って長命で百歳の高齢に達する者も少なくない。それは彼等の質素な生活と、彼等が万事に節度を守っていることに起因するものと思ふ。彼等は地上の不幸を軽んじている。自分の忍耐を以って艱難を克服し、若し重大な原因があったら生命よりも死を重んじる。(59p)

 このエッセィ派は善に向って進み、悪を避くるがために、霊魂が不死のものにつくられると信じている。善人は死後幸福なるものとなるといふ希望に因つて、現世の生活をより善きものにしなければならぬと考へている。そして現世で悪事をなせぜ、このため末来永劫に苦悩を以って罰せられるであらうと信じている。

 この最後の点はエッセイ派の教義を、同時にモーゼの律法及びキリスト教に連絡せしめるものである。

サドカイ派が靈魂不滅を信じていなかったことは既にわれ等の知るところである。

パリサイ派は、現代の心靈論者及び神智學者と同じく輪廻説を信じている。

 ヨセフ・フラウィーは、此の修道士等と並んで、ユダヤ国の諸都市に住んで彼等の教道を信奉し、かれ等の権力に服していた信徒の存在していた事をも記している。

 この信徒は修道士と同様に、修道規則に服していたが、只だ結婚だけは行っていた。

 しかし、かれ恋は結婚を只だ人類を継続する方法と認めたのみで、これを快楽とは考へていなかった。

 なお、ヨセフ・フラウィーの云ふには「彼等が旅行する時は、盗賊に封して自衛すろための武器の外には何物をも携へない。彼等が往く所の町には、同宗派に属する誰かがいる。其の人々は同宗派の来客を接待し、宿所を提供し、衣服その他の必要な品を寄附する。かれ等は互に何物をも賣買せず、只だ其の所有している物を互に換するのみである」と。

以上が我等の主イエス・キリストの生れた時代に於けるユダヤ國民の宗教的情操であった。(61p)

第三章 キリストとパリサイ派



 義人キリストの声が、パリサイ派の築いた堂宇(どうう/お堂)を震撼せしめ、この隠然たる勢力を有する異端者等の偽善を暴いた時、彼等の勝利は、ここにその末期に近づいた。

 イエス・キリストの最初の奇蹟が、この人こそと待望されつつあった。メッシア(ヘブライ語の救世主)であると感ぜしめた時、如何に大なる驚異がパリサイ派の人々を衝撃したかは、バイブルによく指摘されている。既にその以前にも、神の子(キリスト)は、安息日の祝典に就ての問題に於て、外面的敬神を過大に遵守することを装ふて、心中窃かに律法の破壊を謀っていたパリサイ派の偽善を面責した。キリストの往く所に從ひ、その行なった奇蹟を見て鼓舞されつつあった民衆は、【聖殿の賣買を行ふ者】の権勢の終焉を豫報していたかのように見えた。そこでパリサイ派はエルサレムからイエスの許に使者を遣(つかわ)した。

 この使者の一団は、ゲネサレ湖ガリラヤの岸邊でイエスに会った。パリサイ派の規定した洗浄式の一つを口實として、彼等はイエスの門徒等がこの儀式を守らないことを責めて、彼に向って斯う言った。

「なにゆえに汝の弟子は古の人の言い伝え(秘密敎)を犯すか」 と。
イエスは彼等に答へて
「なにゆえに汝等は、また彼等の言傳へによって神の誠命を犯すか」と言った。

 そして彼等が神の言を忘却していることを叱責して、なほ加へて、「偽善者よ宣なる哉、イザヤは汝等に就きて能く豫言せり。曰く『この民は口唇にて我を敬う。しかれどもその心は雲に遠ざかる。ただ徒らに我を拝む。人の訓戒を教えとして教えて』」と言った。(63p)

(続き)


 この宗派にはたゞ一つの希望があった。それはマリヤの子キリストを殺すことであった。斯くの如くにして既に以前にも、彼等をして先祖アブラハムの信仰に立ち帰らしめようと努めた多くの豫言者を彼等は殺したのである。福音書の物語りは、如何にかしてキリストを無き者にせんとしてパリサイ派の人々が企てた陰謀や、壓迫(圧迫)や、奸計に満ちている。

 彼等の悪意はキリストが町から町へ、会堂から会堂へと歴訪して、ユダヤ人の心に彼等の祖先に与えられたる神の古代よりの約束を想起せしめ、彼等が離叛した祖先の信仰の記念を喚起せしめようと努めるに従って、ますます募るのみであった。民衆は擧(こぞ)ってキリストの言に耳を傾けていた。エルサレムでパリサイ派の人々が彼を見た時、彼等の憎悪はその絶頂に達した。そこで彼等の奸策に圍(かこ)まれ、彼等の憎惡の氣息を直感しつつ、神の子キリストは次の如き苦言を以ってパリサイ派の人々に向った。

 禍なる哉、偽善なる學士、パリサイ人よ、汝等は白く塗りたる墓に似たり、外は美しく見ゆれども、内は死人の骨と、さまざまの穢(けが)れとに滿つ。斯くのごとく汝等も、外は人に正しく見ゆれども、内は偽善と不法とに滿つるなり。(64p)

 禍なる故、偽善なる學士、パリサイ人よ、汝等は豫言者の墓をたて、義人の碑を飾りて言ふ、「われもし先祖の時にありしならば、預言者の血を流すことに興(く)みせざりしものを」 と。

(続き)


 斯く汝等は預言者を殺しし者の子たるを自ら証す。
汝等己が先祖の枡目を充たせ。蛇よ、蝮(まむし)の裔(すえ)よ、汝らいかでゲヘナの刑罰を避け得んや。この故に見よ! われ汝ら預言者・智者・學士等を遣(つかわ)さんに、その中の或る者を殺し、十字架につけ、或る者を汝らの会堂にて鞭ち、町より町に遂ひ苦しめん。これによりて義人アべルの血より、聖所と祭壇との間にて汝等が殺しし、バラキャの子ザカリヤの血に至るまで、地上にて流したる 正しき血は、みな汝等に報い來らん。誠に汝等に告ぐ、これらの事はみな今の代に報い來るべし。

 ああエルサレム、エルサレム、豫言者たちを殺し、遺されたる人々を石にて撃つ者よ、 牝鶏のその雛を翼の下に集むる如く、我れ汝らの子どもを集めんと爲せしこと幾度ぞや、されど汝等は好まざりき。視よ! 汝等の家は廢れて汝等に遺さん。」(マタイ傳二十三章) (65p)

 神の恒忍(こうにん/耐え忍ぶこと)がイスラエル民の罪悪のためにその力を失って、神がその仁恵を斯の民から取り上げ、その国権を奪って、これを他國民の間に分配する時期が到来したとの警告を、キリストは、ユダヤ人による神人の殺害、次いで彼等に及ぶ神罰を豫言した次ぎのやうな感動深き言葉を以って述べている。

「また一つの声を聴け、ある家主、葡萄園をつくりて籬(ませ/垣根)をめぐらし、中に酒槽を掘り、櫓(やぐら)を建て、農夫どもに貸して遠く旅立てり。果期近づきたれば、その果を受け取らんとて僕らを農夫どもの許に遣はしたるに、農夫どもその僕等を捕へで一人を打ちたたき、一人を殺し、一人を石にて撃てり。再度他の僕等を前よりも多數遣わしたるに、これをも同じようにあしらへたれば、わが子なれば敬ふならんと思いて、その子を遺したるに、農夫どもは、 この子を見て互(たがい)に言ふ。「これは世嗣なり、これを殺してその嗣業を取らん」と、これをも捕へて葡萄園の外に連れ出して殺せり。途に主人来たる時、農夫どもに言ふ。「その悪人どもを飽くまで滅ぼし、果期に及びて果を納むる他の農夫どもに葡萄園を貸し与うべし」


(続き)


 イエス言いたまう「聖書に『造家者らの棄てたる石は、これぞ隅の首石(おやいし)となれる。これ主によりて成れるにて、我らの目には奇しきなり』と、あるを汝ら未だ読まぬか。この故に汝らに告ぐ、汝らは神の国を取られ、その果を結ぶ國人に、これを与へらるべし。この石の上に倒るものはくだけ、またこの石、人の上に倒るれば、その人を微塵とせん。」
福音書はこれに加へて次ぎのように述べている。

『祭司長・パリサイ人等、イエスの声をきく、己(おのれ)らを指して語り給へるを悟り、イエスを捕へんと思へど群衆を恐れたり。群衆かれを豫言者とするに因る』(67p)

 悲しい哉三年の間パリサイ派が準備しつつあった犯罪の行はるべき日は到来した。義人捕縛せられて、パリサイ派の人々が首腦部となっていた最高評議会に引かれた。そして祭司長等及び長老等(これ等最高職位を自派の人々から出していたパリサイ派)によって煽動されたユダヤ民衆は、当時のローマ政府の長官ピラトに向って兇惡なる強盗たるワラサを赦免して、その代りにキリストを十字架にかけることを請願した。(その当時は過越の祭に十字架にかける罪人の代りに必ず一人を赦免する規正になっていた。)

 世界の救主が、すべての罪人等の上に伸ばして広く左右に開いた雨手を、パリサイ派の人々は、十字架の木に釘を以って打ち附けた。十字架に釘づけにされたキリストの足下に、その門下達や、門徒及び聖なる婦人たちが泣き叫んでいた時、神の子の殺害者なるユダヤ人は、高らかな笑声をあげて、『その血は、われ等とわれ等の子孫とに帰すべし」と、 忘れ得ぬ言葉をくり返していた。(68p)